融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は礼拝です

2024年07月27日 | 礼拝のご案内

 明日7月27日(日)は、主日礼拝です。午前10時から礼拝が始まります。メッセージは「愛は命のパン」、賛美歌は「イェス、イェス」、「飢えている人と」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 秋田・山形では、豪雨災害が発生中とのこと、お見舞い申し上げます。大災害にならないように祈るばかりです。

 世界を見渡すと、ウクライナでは、NATOとアメリカがバックになり、ロシア弱体化の妄想に取り憑かれて戦争中です。イスラエルでは、アメリカがバックになり、1200人殺されたからと言って分かっているだけで3万数千人のガザ住民を殺害、うち子ども・女性は7割で瓦礫の下に放置されている人たちを加えると10万人以上が殺され、今後も全員殺すかガザを占領するまで続けるものと考えられています。

 両方に首を突っ込んでいるのがアメリカです。どうしてこんなことになるか、7月第二日曜日が「部落解放祈りの日改め、あらゆる差別からの解放を祈る日」であったことから、やっぱり差別が問題だと思わされます。人を奴隷にしても良いと考えたり、殺しても良いと考えたり、それらは差別があるからそうなるのです。ヨーロッパ人のロシア人差別、イスラエル人のアラブ人差別、大雑把な言い方で恐縮ですが、根本に差別が背景にあることは否定できません。

 振り返れば、両方に出てくるアメリカも先住民族を大量虐殺し、先住民の歴史や記録・記憶を全て消し去ったことによって成立した国です。生まれついての人殺し、その血が疼いて、差別の対象とするものを殺すことが止められないのでしょうか。差別はかくも恐ろしいものです。この世界のマトリックスに何の疑問も持たず、身を任せるならば楽ちんでしょう。実際、このマトリックスから自由になるには、厳しい現実を掻い潜らなければならないものです。映画「マトリックス」は、振り返れば本当に先進的でした。今となっては、差別からの解放のバイブルだなと思う今日この頃です。

 

 

 

 


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「愛は永遠の命」

2024年07月27日 | 聖書のお話

「愛は永遠の命」 ヨハネによる福音書 6章22~33節

 イエスさんは、少年が差し出した大麦のパン五つと二匹の魚を分け合って、五千人以上の群衆のお腹を満腹にしました。翌日も群衆がイエスさんを捜し求めてカファルナウムまでやって来ました。イエスさんは、彼らに向かって「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物ために働きなさい。」と言いました。

 「しるしを見た」のが上等で、「パンを食べて満腹した」ことが世俗的というのではありません。むしろ、「しるし」に目を奪われて感情的になるよりも、「パン」を食べて明日に命をつなぐことの方が現実的なのです。イエスさんは、十字架で命を賭して愛を示されました。そして、聖霊を送り、その愛を分け合うことができるようにされました。聖霊は、イエスさんの愛そのものです。パンは朽ちるものですが、聖霊は永遠に残ります。日々愛の業を行い、霊を分け合ってお腹を満たすこと、それこそが私たちにとって永遠の命なのです。

 


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明日は礼拝です

2024年07月20日 | 礼拝のご案内

 明日7月21日(日)は、主日礼拝です。午前10時から礼拝が始まります。メッセージは「愛は永遠の命」、賛美歌は「イェス、イェス」、「飢えている人と」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。礼拝後は、延期していた7月の定例役員会があります。

 ガザで惨殺された人たちが、分かっているだけで3万数千人と発表されています。こういう場合、殺されていても数がカウントされていない人がその3倍以上いるというのが常識のようです。すると、恐らく殺された人たちは10万人以上いるということになり、パレスチナでは気が遠くなって気絶しそうな大量虐殺ジェノサイドが今も続いています。

 こうなった根源は、資源欲しさの政治的な領土的野心に他ならないと思いますが、その理由に宗教が持ち出されているところが気持ち悪いです。政教分離は建前で、実際は政治と宗教は両輪となっています。けれども、正統的なユダヤ教徒は、このような殺戮に反対しています。宗教とは、本来人々を幸福に導く筈のものですが、堂々と「自分さえよければ他人は死んでも良い」と公言するとき、こんなにも恐ろしいことが起こるものなのです。

 イスラエルの詐欺的なところはパレスチナ占領時点から始まっていることですが、最近では、あのドイツがどうなったんだという印象です。「戦争責任」というジャンルについては、見習うことが多いと思っていましたが、最近の方向転換ぶりには驚いています。それらの背景に、どうしても優生思想があって、「自分たちが一番優れているのだ」という考えから抜け出せないようです。それに加えて、どうしても逆らえない相手がいるという力関係も無視できません。これは、何もドイツだけの問題ではありません。これと同じ構図で、台湾有事が画策されていて、日本もどっぷりとその中に浸かっているところです。さて、この先はどうなるのか想像してみてはどうかと。

 結局のところ、「自分を愛するように隣人を愛せよ」というイエスさんの愛の教えを守りさえすれば、争いなど起こらないのかも知れません。他者を差別せず、自分がして欲しいと思うようなことを互いが行っていれさえすれば、世界も平和なのかも知れません。言い換えると、互恵の精神です。何だか、「文明人になることは西洋人みたいになることだ」という考えは、メッキが剥がれたように思います。これからの時代は、一極支配ではなくて、多極的で互恵の精神によって相互に支え合う世界に向かうことを願っています。個人的には、愛の教えを心に刻み、残りの人生を歩みたいものだと思う今日この頃です。

 

 


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「イエスの教えを聞く」

2024年07月20日 | 聖書のお話

 「イエスの教えを聞く」 マルコによる福音書 9章2~8節

 イエスさんは、山上で自らの姿が輝いて変貌しました。いつの間にかエリヤがモーセと共に現れ、イエスさんと一緒に語り合っていました。その神秘的な様子を目の当たりにしたペトロは、小屋を三つ建てて献上すると言い出しました。気持ちが高ぶり、反射的に礼拝して何かを捧げなければならないと考えたようです。しかし、それ以上の何かに思いを寄せることはありませんでした。そして、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という神さまの声が聞こえた後、あたりは普段通りの日常に戻っていました。

 一同が山を下りるとき、イエスさんは「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはいけない。」と弟子たちに命じました。イエスさんが復活するまで、何となく礼拝し、捧げることが繰り返され、それ以外のことに注意を向けることはありませんでした。けれども、十字架と復活、また聖霊降臨の後、イエスさんが教えた「愛」によって、エリヤが預言したことで権力者から命を狙われていた苦労や、モーセが民を導く際の重責に思いを寄せることができるようになりました。「愛」があれば、バプテスマのヨハネの悔い改めの運動にも思いを寄せることができると教えられているのです。

 


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明日は部落解放祈りの日です

2024年07月13日 | 礼拝のご案内

 明日7月14日(日)は、主日礼拝です。午前10時から礼拝が始まります。メッセージは「イエスの教えを聞く」、賛美歌は「イェス、イェス」、「飢えている人と」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。礼拝後、7月の定例役員会があります。

 日本基督教団では、7月第二日曜日を「部落解放祈りの日」と定め、日本社会に根強くある部落差別の解放を願って祈りを合わせることになっています。正直、部落差別のことは「寝た子を起こすな」と言って話題にもしないところが多いかと思います。教会は、福音を宣べ伝えるところであって、差別解消の声を上げるところではないとも言われています。 

 しかし、福音の中心は「愛」なのですから、愛が人々の心に根付きさえすれば、差別も解消する筈です。しかし、未だに差別がなくならないのは、厳しい言い方をすれば、教会が「愛」を伝えず、「信仰」という名の権威を伝え、この世の権威として存在し続けることの方を目的としているからではないかと思ったりします。

 話題を「部落解放祈りの日」に戻すと、部落差別からの解放をいくら祈っても、部落差別がなくなることはないと思っています。なぜなら、あらゆる差別がなくなってこそ、部落差別もまたなくなるものだからです。他に差別があるのに、部落差別だけがなくなるようなことは起こり得ません。だから、部落差別の解消を願うのなら、あらゆる差別の解消のために祈り、行動することが求められています。「部落解放祈りの日」とは、「あらゆる差別からの解放を祈る日」と読み替えるべきです。

 イエスさんの教えを信じる者は、教えの中心である「愛」に着目したいと思います。「あらゆる差別からの解放を祈る日」の礼拝では、イエスさんの「愛」を学び取り、誰かから強いられてではなく、自発的に愛と人権を尊び、差別解消に向かえる人間になれるよう祈りを合わせたいと願っています。

 


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