融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は礼拝です

2022年11月26日 | 礼拝のご案内

 明日11月27日(日)は、第一アドヴェント礼拝です。午前9時からの教会学校は、お休みしています。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは、「神は我々と共におられる」、賛美歌は「主を待ち望むアドヴェント」(1番)、「はるのあした」です。先週、捧げることができなかった収穫物を持ち寄り、収穫の喜びを分かち合います。併せて、西宮門戸教会との礼拝交流の一時として、世一さんと共に礼拝を守ります。感染症対策をして礼拝を行っています。ご理解の上、ご出席ください。

 部落差別解放を訴えて、水平社が設立されて100年が過ぎています。ある人が、部落差別は他のあらゆる差別と比べて最も悪質だと言われていたことを思い出します。なぜ最も悪質かというと、民族が違うとか、肌の色が違うというのが一切無いのに差別をするからだということです。なるほど、民族や肌の色が違うとどのように付き合ったら良いか戸惑うことがあるかも知れませんが、相対化して、民族の歴史や人柄について理解が深まるとシンパシーを感じたりもします。しかし、民族も同じ、肌の色も同じ、全てが同じなので相対化もできない、それでも差別をする、なるほど確かに部落差別は最も悪質だと思わされます。

 学生時代、差別をなくするようなカリキュラムを設置することに関わったことがありますが、その際、部落差別が無くなれば良いのかというようなことを問われたように思います。その際、いや全ての差別がなくなるようなカリキュラムでないと、部落差別もなくならないでしょうと答えたことを思い出しました。部落差別がなくなるのは、あらゆる差別がなくなって後、最後なのかも知れません。なぜなら、最も悪質だからです。

 差別とは、民衆の分断装置だと考えています。この分断装置を民衆が破壊するためには、それこそ心が入れ替わるほどの変革がもたらされないといけないのかも知れません。あるいは、もっと簡単なことなのかも知れません。おそらく、分断装置を破壊するのは簡単なことだろうと思います。けれども、なぜ分断装置がそこにあるのか、誰が分断装置を置いているのかについてまで広げると、それこそ社会の変革が求められるようなことになるのではないかと思うのです。

 


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「愛という名の収穫」

2022年11月26日 | 聖書のお話

 「愛という名の収穫」 ガラテヤの信徒への手紙 6章1~10節

 収穫の秋を迎えました。店頭には、美味しそうな色とりどりのお野菜や果物が並んでいます。それを見て、食べ物を備え、私たちの命を養ってくださる神さまに思いを寄せ、心からの感謝を捧げたいと思います。それと同時に、お百姓さんが毎日汗を流して畑を耕し、食べ物を育てておられることを忘れず、その労に感謝したいと思います。

 パウロは、日々「善」という種を蒔くことが信仰者のなすべき業であり、「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」と教えています。 私たちの信仰は、簡単に言ってしまえば「愛」という名の収穫を得るために励んでいるようなものです。美味しそうで色とりどりの「愛」が既にあるのではなく、額に汗を流し、たゆまず善という名の種を蒔き続けた結果、「愛」が収穫できるのだということを忘れないようにしたいと思います。

 


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明日は礼拝です

2022年11月19日 | 礼拝のご案内

 明日11月20日(日)は、教会暦で収穫感謝日・謝恩日です。午前9時からの教会学校は、お休みしています。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは、「愛という名の収穫」、賛美歌は「はるのあした」、「いつくしみ深い」です。感染症対策をして礼拝を行っています。ご理解の上、ご出席ください。

 収穫感謝礼拝では、畑で取れた野菜などを持ち寄り、食べ物を与えてくださる神さまに感謝の思いを捧げています。事情により、収穫物を持ち寄っての礼拝は、次週27日(日)第一アドヴェントの礼拝と収穫感謝礼拝とを併せて行うことになっています。更に、その日の礼拝を西宮門戸教会との礼拝交流とし、西宮門戸教会の方が礼拝に出席され、交流を深めることになっています。

 世界情勢は荒れ放題、物価は上がり放題、新型コロナやインフルエンザの心配とか、改めて健康で生きていることが一番大事なんだなぁと思わされています。テレビや新聞は、考えをある方向へと導こうとしているように思われます。受動的に情報を鵜呑みにして一喜一憂するのではなく、自分で丹念に調べた情報を元に、自分の頭で考え・判断し、向き合い方についても自分次第なんだということを自覚したいと思います。皆さん、どうかご自愛ください。

 


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「地方学」なるもの

2022年11月18日 | 日記

 「耕助のブログ」のご紹介です。

 今回の中国に関する記事を読んで、自分の身の回りのことを改めて考えさせられました。それは、昨今の少子高齢化や過疎の状況について、地方の若者には「地方学」なるものを学ぶことが必須なのではないかと思いました。

 「地方学」なるものとは、地方が抱えている様々な問題についてタブー視をせず議論し、検討し、解決への方法を考えるという学びのことです。それを、地方に生きる若者自身が学び、その頭脳をもってそれぞれの地域で行うべきビジョンを持ち、それぞれの地方に帰ってスキルを発揮することができれば、明るい未来が創造できるというものではないでしょうか。

 よく選挙の際、「この町を明るくしたい」というようなスローガンをよく耳にします。しかし、具体策のない単なるかけ声であったり、利権を追求するために担いだ軽い神輿のような議員に町の未来を期待する方が間違っているというものです。地方をそのような程度の理解しかできず、面倒くさいことはタブー視するばかりであったなら、どう町を明るくできるというのでしょうか。

 今後、「地方学」なるものを学んだ若者を地方議員として選び、議会の多数を占めるようになれば、同様に役場の職員も「地方学」なるものを学んだ若者が多数を占めるようになれば、それこそ全議員が、全職員がそうなれば、5年後、10年後の町の未来がどうなるのかを誰でもがイメージすることが可能になるのではないかと思わされました。

 「でんでん」とか「みぞゆう」とか誤読するような議員に、何が期待できるかということです。

 


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「人類皆平等」

2022年11月18日 | 聖書のお話

「人類皆平等」 マタイによる福音書 23章1~12節

 イエスさんは、群衆と弟子たちに向かって「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座についている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。」と言いました。

 「モーセの座」とは、信仰者に教えが示される場所のことです。そのため、権威のある場所と考えられていました。律法学者やファリサイ派の人々が語る言葉は、「モーセの座」についている者からの尊い教えとして聞き、守りなさいと教えられたのです。

 しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、日常においても自分が権威ある者のように振る舞い、「先生」と呼ばれて特別扱いされることを好んでいました。イエスさんは、「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」と言い、「先生」と呼ばれる方も呼ぶ方も戒めました。更に、妥協して「教師」と呼ぶことさえ許さず、神さまの前では人類皆平等であると教えられました。

 


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