融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

オリンピックは予定通りやるってか?

2020年02月27日 | 日記

 首相は、オリンピックを予定通りやると言っているようですが、世の中の状況が分からないのでしょうか。コロナ対策会議は数分で終わらせ、後は高級料亭に繰り出すばかりの上級国民には、庶民の生活など知ったこちゃないのでしょう。そう言えば、オリンピックとは、上級国民が奴隷をライオンと闘わせたり、奴隷同士で殺し合いをさせたりして、それを見物して楽しむというグロテスクなものが始まりでした。それが、段々とスポーツの祭典などと言われるようになったのですが、開催に伴う利権の問題が生まれ、およそクリーンなイメージではなくなっているように思います。

 コロナウイルスによる新型肺炎の問題も、東京オリンピック開催が予定されていなければ、もしかしたらこれほどのことにはならなかったのかも知れませんが、オリンピック開催ありきで全てを進めようとするあまり、ここまで酷いことになったのだと思います。反知性主義もここまで来たかという感です。「日本人、大丈夫か」と世界中から心配されているように思います。今、まるで古代のオリンピックを思わせるような状況ではないかと思います。つまり、反知性主義の上級国民が下級国民を見下して競わせ、高みの見物をして楽しみながら利権を貪るという図のことです。

 もう、いい加減に目を覚ましましょうよ。上級国民も下級国民もない、互いを思いやる愛に満ちあふれた平等社会を目指しましょう。

 


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播州地区協力伝道

2020年02月26日 | 日記

 来る3月1日(日)の礼拝は、播州地区協力伝道礼拝として守ります。メッセージは、姫路五軒邸教会の木原貢基師が担当してくださいます。午前9時から教会学校、午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージの題は「神を見る」、讃美歌は「主よ、いのちのパンをさき」、「十字架のもとに」、「うつりゆく世にも」です。礼拝後には、お茶の一時があります。ご興味のある方は、どなたでもご参加ください。

 木原貢基師を送り出してくださる姫路五軒邸教会の礼拝の上に、祝福をお祈りいたします。播州地区協力伝道を通して、但馬地区と播州地区との交流と連帯が益々深められますようにと願っています。木原貢基師は、当日の早朝に姫路を出発し、夏タイヤの自動車で来られるとのことです。今年は雪が少なく、気温も高いので、まず大丈夫かと思いますが、当日は良いお天気に恵まれますように今からお祈りいたします。どうか、お気を付けてお越しください。

 コロナウイルスが猛威を振るっています。政府は、すべてが自己責任とでも言いたげなことばかりのように思います。感染者数が増え、オリンピックが中止になってしまえばアテにしていた利権を失ってしまいますので、検査さえしないというノーガード戦法ならぬ、ノーカウント戦法に出ているようです。まったく呆れるばかりですが、感染が広がり、人々に不安が広がったその先に、緊急事態条項とか憲法改憲を言い出しかねない雰囲気があって始末に負えません。

 そんな滅茶苦茶で不気味な世の中にならないように、本来人が大切にすべき連帯や愛について、決して失ってしまわないように今を過ごすことが大切ではないかと思います。行事を中止するのも、上から言われたからではなくて、それぞれが感染しないための方法として、互いを思いやる気持ちでしたいものだと思います。そう、この機会に、私たちはもっと互いへの思いやりの気持ちを育みましょう。そして、滅茶苦茶で不気味な世の中を変えて行きましょう。

 


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「小さな思いから」

2020年02月26日 | 聖書のお話

「小さな思いから」 ヨハネによる福音書 6章1~15節

 5千人以上の人々を目の前にし、イエスさんはフィリポに「この人たち食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言い、どう答えるのかを試されました。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。それは、経済的な問題から、人々に食べさせることを諦めてしまうのと同じでした。

 アンデレは、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と言いました。おそらく、少年はイエスさんや弟子たちに食べてもらおうとして大麦のパン五つと魚二匹を提供したのだろうと思います。それは、一グループが食べるほどの分量でしかありませんでした。アンデレもまた、これでは5千人以上の人々に食べさせることなどできないと考え、諦めようとしました。

 しかし、イエスさんは、誰かに食べてもらおうとする思いが大切であることを教えておられるように思います。それは、愛であって、できる、できないの問題ではありません。確かに「しるし」を行われるのはイエスさんです。けれども、私たちの側にも愛がなければ、イエスさんの行われる「しるし」に参与することなど到底できないことが教えられているのではないかと思います。

 


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恥ずかしい日本の首相

2020年02月18日 | 日記

 ANAホテルは、企業としてコンプライアンス(法令や規則をよく守ること。法令遵守。)を遵守しているのでしょう。まっとうなことです。一方で、日本の首相は場当たり的な口から出任せの嘘をついているということになります。しかし、一国の首相がすぐにバレるような口から出任せの嘘をついているのですから、世界中の恥さらしというものです。

 安倍首相の言っていることは、どう考えても常識に欠け、無理筋というものです。まるで、嘘を指摘されてムキになり、次から次へと屁理屈を並べているようにしか見えません。自分でも嘘か現実か分からなくなっているのでしょう、可哀想な人です。すぐ病院に入れて検査してあげるべきです。

 誰でも少し考えてみただけでバレるような嘘を、国会でよくつけるものだと思います。しかも、首相と一緒に高級料亭で会食を繰り返し、政権に忖度しているメディアには開いた口が塞がりません。日本中、いや世界中の人々が見ているというのに。感覚が麻痺しているのか、元々その程度なのか、その両方があるような気がします。

 アベトモや上級国民なら犯罪を犯しても捕まらないとか、行政でも公文書が書き換えられたり、存在そのものがなかったことにされてしまうとか、もう、日本は何年もこのような異常な状態が続いています。ウンザリです。



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「赦された者として」

2020年02月18日 | 聖書のお話

「赦された者として」 ヨハネによる福音書 5章1~8節

 5つの回廊に横たわっている人々がいました。そこは、ベトザタと呼ばれている間欠泉のある二つの池と、病気を癒やすための湯治場であったようです。ここにいるのは、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人たちでした。彼らは、5つの回廊と、物語の後半部分で病気だった人が「もう、罪を犯してはならない」と言われていることから、ユダヤ教(モーセ五書)に属し、罪人と呼ばれていた人々ではないかと思われます。

 イエスさんは、38年も病気に苦しみ、罪人と呼ばれて来た人に向かって「良くなりたいか」と尋ねました。すると、彼はこれまで病気のために貧しくされ、底辺に置かれた者たちが繰り広げて来た生存競争について生々しく語りました。それは、ユダヤ教に属して生きている人々、とりわけ貧しく弱い立場にされていた人たちの痛々しいほどの現実でもありました。

 イエスさんは、彼に向かって「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言いました。すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出しました。彼には、ユダヤ教に属して生きのか、イエスさんを信じて生きるのかという、二つの選択肢があるように思います。私たちもまた、罪を赦された者としてどのように生きるのか、その選択が迫られているのではないかと思います。

 


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