融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は礼拝です

2024年03月30日 | 礼拝のご案内

 明日3月31日(日)は、イースター礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「ガリラヤに行け」、賛美歌は「ハレルヤ、ハレルヤ」、「わたしたちを造られた神よ」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 芥川龍之介の作品に、「蜘蛛の糸」があります。説明する必要もないくらい有名な小説です。一つの考え方として、「宗教は、人を天国へと導くもの」です。その際、蜘蛛の糸のように天国への道を自分だけのものとするなら、それを得ることは難しくなってしまうものです。宗教とは、人の生き方のことであり、天国を御利益と考え、それを追究することが宗教と考えることは間違っているのではないかと思います。

 イースターは、イエスさんが復活したことを記念する行事です。イエスさんは、復活して何を示したかったのでしょうか。「自分は神の子だぞ、偉いんだぞ」と言いたかったのでしょうか。そうではなく、愛し合って生きることこそが大切であると伝えたいために、復活されたのではないかと思います。

 振り返って、私たちは互いに思いやり、愛し合って共存しているのでしょうか。およそ、そうでない状況が今の世界の有様ではないかと感じています。人が殺し合うことを認めてる人の中にも、イエスさんを信じているという人たちも大勢います。宗教が御利益追究のためになっているからでしょう。まさに「蜘蛛の糸」が伝えている暗澹たる有様が、今の世界の状況ではないでしょうか。

 私たちが互いに愛し合って生きること、それが一番大切であると教えているのがイースターです。

 


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「一番大切なこと」

2024年03月30日 | 聖書のお話

「一番大切なこと」 マタイによる福音書 27章32~44節

 十字架の刑は、ローマ帝国に対する反逆者が受ける刑でした。イエスさんは、祭司長、律法学者、長老たちといったユダヤ社会の指導者たちを批判しましたが、ローマ帝国に対する反逆を企てたりしませんでした。その点では、イエスさんが十字架の刑に処せられる理由は何もありませんでした。十字架に磔られたイエスさんの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書かれた罪状書きが掲げられました。イエスさんの十字架刑は、当時しばしば起こっていたユダヤ人の独立運動による反逆の一つとして扱われたのです。

 イエスさんは、十字架刑の判決を受けるにあたり、一貫して何の弁明もせず、まるで屠り場に引かれて行く子羊のような有様であったと伝えられています。それが、イエスさんは私たちの罪を贖うための生け贄として十字架に磔られたのだというキリスト教の教義につながりました。本来、受ける理由もない十字架の刑で命を落としたのは、私たちの罪を贖い、赦すためであると信じたのです。別の言い方をすれば、イエスさんは十字架で命を賭して神の愛とは何かを示されたのです。イエスさんを信じるとは、愛によって罪が赦された者として、愛によってどのように生きるのかということです。

 


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明日は礼拝です

2024年03月23日 | 礼拝のご案内

明日3月24日(日)は、しゅろの主日礼拝です。この日から受難週が始まります。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「一番大切なこと」、賛美歌は「わが主イェスよ、ひたすら」、「わたしたちを造られた神よ」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 ここ数年、世界は混迷を極めているような印象です。これは夢かと思うばかりの殺戮が繰り広げられています。そんな世界情勢にあって、自分には関係ないと言って高をくくりつつ、受難週を迎えることなどできません。

 ニュースでは、色々なことが伝えられていますが、大部分が色づけられています。真実とは多面的なものなので、真実とは何かを追究するということは、一つのニュースだけではなく、正反対のことを伝えるニュースの両論併記や、国を跨いだ多数の情報に触れることが必要で、時間もエネルギーもかかり、楽をしてできるものではありません。外国のニュースを読むためには、語学力が必要になるのですが、翻訳してくださる方々もおられ、本当に感謝です。

 いずれにしても、世界で目にしている殺戮が、近い将来に東アジアにも飛び火するように思わせられます。これまでの既成事実をたどり、その事例を知ることを通して、ある程度これから起こることを類推することが可能です。何物かがコッソリと推し進めている以上、その痕跡を根気強く調べることによって、真実を追究することも決して不可能ではないのではないかと思わされる今日この頃です。

 

 

 


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「洗足は愛」

2024年03月23日 | 聖書のお話

「洗足は愛」 ヨハネによる福音書 13章1~15節

 当時、食事に招待されたお客の足を洗うのは、奴隷の仕事でした。イエスさんは、食事の際、奴隷がするように弟子たちの足を洗いました。その時、ペトロは「わたしの足など決して洗わないでください。」と言いました。そう言ったのは、ペトロが奴隷の仕事とは何かを認識しつつ、師であるイエスさんが奴隷の仕事をするのはあり得ないと思ったからです。

 イエスさんは、ペトロに「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と答えると、ペトロは、「主よ、足だけでなく、手も頭も。」洗って欲しいと言いました。ペトロは、イエスさんの「何のかかわりもないことになる」との言葉によって、自分の考えをそれこそ180度改めたのです。奴隷になりたいと思う人は、誰もいません。しかし、人が嫌がるような仕事を誰かに行わせることによって社会が成り立っている現状があります。それが現代の奴隷制度です。問題は、一方通行の奉仕を強いることです。一方通行の奉仕を強要し続けることは、やがて人を倦み疲れさせてしまうことになり、失望し、憎み争い合う方向へと導かれてしまうことになります。そうならないためにも、私たちは現代の奴隷制度に疑問を持ち、改める必要があるのです。

 イエスさんは、弟子たちに「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」と言いました。イエスさんは、一方通行の愛ではなく、互いに足を洗い合うという相互方向の愛を行うように模範を示し、教えているのです。たとえ愛であっても、一方通行であるならば、やがて倦み疲れてしまうものです。相互通行の愛であるならば、互いに慰め励まされ、信頼が深められ、やがて平和の道へと導かれることでしょう。イエスさんは、弟子たちの足を洗って愛し方を教えられたのです。洗足は、愛です。

 


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明日は礼拝です

2024年03月16日 | 礼拝のご案内

 明日3月17日(日)は、主日礼拝です。西宮門戸教会との礼拝交流として守ります。ほぼ毎年、西宮門戸教会信徒の方が浜坂教会の礼拝に出席してくださっています。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「洗足は愛」、賛美歌は「わが主イェスよ、ひたすら」、「わたしたちを造られた神よ」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 最近、私がよく読ませてもらっている、海外の記者が書いたものを日本語に翻訳してくれているサイトの記事をご紹介いたします。日本のニュースや御用解説委員とやらのポエムばかり見聞きしていると、頭が馬鹿になってしまうからです。出来事は多面性があり、同じ出来事でも主張が違う場合は、両論併記することによって検証することが可能になります。考えるな、ただ信じろというのは、カルトです。語学が堪能でない人でも海外の記事が読めるのですから、翻訳って本当に有り難いですね。画像をクリックすると、ご紹介する記事が開きます。

 ご紹介するのは、以前、「ぼくがラーメンたべてると・・・」でご紹介させていただいた、アーロン・ブッシュネルという人についてのことです。折しもキリスト教界では、イエスさんが十字架への道を歩んだ受難節を過ごしているところです。今回ご紹介する記事を読んでいて、改めて思ったことは、このアーロン・ブッシュネルさんは、イエスさんと同じだということです。なぜならば、イエスさんは愛を伝えるために命を賭し、アーロン・ブッシュネルさんも愛を伝えるために命を賭したからです。

 


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