礼拝というと、私はこれまで式次第の通りに、定型句で行ってきたのかもしれません。自分なりに式次第を考え、目的も考え、言葉も考えたつもりですが、それがしばらくすると、ただ反復するだけになっていたのかもしれません。それはそれで、定着とか学習、習慣という意味があるのかもしれませんが、惰性になってしまうということもあるのかもしれません。
私は、クリスチャンホームに生まれ、幼い頃より教会生活に慣れ親しんでいますので、礼拝に臨む態度としては「自然体」ではないかと思っています。自然体というのは、いわゆる熱狂的になって我を失うようなことではないという意味です。キリスト教の教派によっては、熱狂的になるのが当たり前の教派もありますので、私が教会生活を送った教派が、私に自然体が当たり前を思わせただけなのかもしれません。私は、自然体が良いとか、熱狂的なのが悪いとか、そんなことを言いたいのではありません。
今週の初め、播州地区教師一泊研修会に参加しました。聖餐式を創ってみようというキャッチフレーズで、聖餐式について色々と講義を聞いて、話し合いが持たれました。具体的に聖餐式を創ってみようということで、そのための第一歩として、講師の指導に従ってイメージ作りがなされました。聖餐式であっても、礼拝でも、あるいは何をするにしても、どうすれば有意義なものができるかと考えることは大切なことではないかと思います。
聖餐式の対象について、フリー、オープン、クローズドというように、色々な考えや立場があります。また、二重教職制という問題もあります。それぞれの考え方には、それぞれが正しいとする考え方があると思います。それぞれの立場から、という前提で、色々な考え出されたことを報告し合いました。そんな話し合いができる播州地区は、度量が深いと思いました。で、招きの詞を創ろうということで、スイスのバーゼル宣教団の隠退した教師たちが行っている聖餐式の式文を参考にしました。
結論から言うと、何か新しい聖餐式文が創れたというのではなく、創ってみようという導入部分を皆で経験したということだったように思います。印象としては、聖餐式は楽しいんだ、感謝があるんだ、喜びがあるんだ、といったように、言葉を選んでイメージを伝えようとするアプローチが多かったように思います。私は頓珍漢なので、過越の食事のイメージで、「これから裏切ってしまうにも関わらず、そんなことも考えもつかずに飲み食いする有様」というテーマで考えてみたり・・・。まぁ、たくさん人が集まって、あれこれと話し合うのは教えられたり、気づかされたりして良いことだと思いました。
私が考えさせられたのは、聖餐式とか礼拝とは、喜ばせたり、感謝させたり、悔い改めさせたり、感動の涙を流させたりと、そんなテクニックなのか、ということでした。礼拝が楽しくなければ、誰が来るのかということもあります。もちろん、礼拝とは楽しいものだと信じているからそう言っているのでしょうから、それをテクニックで伝えようとしているのだと思います。けれども、そう信じているから、そうでないものは間違っているとも言えないのです。そうすると、何も楽しいだけとも限らないのかもしれません。
私は、テクニックも大事だと思います。司式をする立場としては、スキルも求められるからです。礼拝をする側の人間には、色々な事情があります。笑いたいときもあれば、泣きたいときもあります。それらに、応じた礼拝もまた、礼拝なのだろうと思います。隣にいた加藤先生が、とっても素晴らしいことを言われました。「鍋だ!鍋を囲もう!」 なるほど。
で、考えさせられたというのは、礼拝では、礼拝を大切にするために考え出されたテクニックも必要だけれども、テクニックが礼拝ではないということではないでしょうか。礼拝には、人のテクニックを必要としない、してはならない部分があり、それがむしろ大切な部分なのではないかと思います。上手い表現が思いつきませんが、テクニックが上手下手とか、好みとかが入る余地のない、無の境地のような部分を大切にしなければならないのではないかと思います。それは、決して人の考えを誘導したりしない、洗脳したりはもってのほか、礼拝する人が誰の目も気にせずに自分の意思で神さまに向き合い、神さまへの応答として自分の生き方を自分で決める自由があること、そのことから遠ざけてしまうようなテクニックなら、むしろ害悪ではないだろうかと思います。
人の内側にあり、その中身は誰からも見えない、分からない、説明のつけようがない、いわば無の境地という礼拝の部分がどんなものなのかを伝えるテクニックも必要だと思います。どうすれば伝えられるのか分かりませんが。いや、もうこれで伝えられたのかもしれません。いずれにしても、そんな無の境地のような部分が礼拝にあることが大切なのではないかと思っています。後は喜ぼうが、泣こうが、感謝しようが、怒ろうが、それが自然体というものかもしれません。