融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は礼拝です

2016年01月30日 | 礼拝のご案内

 明日1月31日(日)は、主日礼拝です。午前9時から教会学校、10時から讃美歌練習、10時15分から礼拝が始まります。メッセージの題は、「従うことが誰でもできた」です。讃美歌は「球根の中には」(今月の歌)、「ガリラヤの風かおる丘で」、「主の招く声が」です。礼拝後、祈りの一時、そして月の最後の日曜日ですので、会堂清掃をします。それからお茶の一時です。どなたでもご出席ください。

 先週は、寒波で水道管が凍結しましたが、今週はどうなるでしょうか。インフルエンザも流行し始めたようです。お年寄り、子どもが守られますように。それぞれ、予防に励みましょう。

 


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「未来への道を示していた」(姫路教会にて)

2016年01月30日 | 聖書のお話

「未来への道を示していた」 マタイによる福音書 4章1~11節

 バプテスマを受けられたイエスさまは、霊によって荒れ野へと導かれました。そこで、40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられました。すると、悪魔が誘惑をするためにやって来ました。この、荒れ野での誘惑物語は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書にそれぞれ記されています。マルコは、イエスさまがおられる所は、理想的な神の国の状態にあるという幻として伝え、ルカは、来るべき時へと向かう流れの中の一場面として伝え、マタイによる福音書は、問題を抱えている社会、不完全な社会、弱さを持った社会にあって、その流れに抗うイエスさまを伝えようとしているのではないかと思います。

 問題を抱えている不完全な社会においては、石をパンに変えたなら、貧困による飢えが救えるのかもしれません。高い神殿から飛び降りてケガ一つしないことを示せたら、偶像礼拝を止めさせることができるのかもしれません。悪魔を崇拝するならば、悪魔に魂を売ることによって成り立っている、この享楽的な世界の人々に受け入れられるのかもしれません。イエスさまは、人間には食べ物と同じように愛も必要であること、神さまを自分の都合のよいように利用してはならないこと、いくら世界が悪魔的な享楽に満ちていても、神さまと共に歩んでいることを忘れてはならないと教えているように思います。

 イエスさまが悪魔を退けられた後、天使がやって来てイエスさまに仕えました。悪魔は、イエスさまによって退けられましたが、なお不完全で弱さを抱えている社会においては、天使が側で仕え、支えることが必要であったのかもしれません。浜坂教会のことでいえば、たくさんの方々による互助・連帯・祈りが「天使」にあたるのではないかと思います。感謝に堪えません。

 


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「当たり前」←もはや死語か?

2016年01月29日 | 日記

 2011年3月11日の東日本大震災によって、福島原子力発電所が大爆発を起こしました。今現在も、手が付けられないような場所もあり、汚染水も溜まる一方なのに、安倍首相は「アンダーコントロール」と言っています。どう考えたらそんな頓珍漢なことが言えるのだろうかと驚き怪しんでいます。

 事故後、数年間、日本にある全ての原子力発電所が停止していましたが、その間、電力の不足は起こったことがありません。そして、2015年9月に川内原子力発電所1号機が、11月に川内原発再稼働2号機が再稼働しました。また、本日2016年1月29日に高浜原子力発電所3号機が再稼働しました。高浜原子力発電所三号機は、プルトニウムを混ぜたMOX燃料を使っているそうです。MOX燃料は、放射線が強いので、作業員への被爆の心配や、後々の処理も面倒になると言われています。

 最近、各地で大地震や火山活動が活発になってきています。地面の下は「活動期」になったと言われています。そんなことを言わなくても、当然、地球は生きていますので、活発に活動してもらう方が良いのかもしれません。地球が死んでもらっては困ります。

 知り合いの年配の牧師は、元技術者で、長年、原子力発電所にも関わっていたそうです。その先生は、かつての仕事を振り返る中で、原子力発電所の燃料になるウランを採掘する人が被爆して健康を害し、使用済み燃料は何万年も放射能を出し続け、処分の場所もないのに核のゴミを出し続ける原子力発電所に関わってきたことに自責の念を覚えていると言われていました。

 そのように考えることは、当たり前だと思います。人の健康を害させ、後の時代の人の分まで健康を害するような核廃棄物を、捨てる場所もないのに出し続けるような状態を、何にも思わない方がおかしいのです。けれども、原発を早く再稼働させるべきだと真顔で言う人もおられます。人の健康を害させてはいけない、後の時代の人たちに迷惑をかけてはいけない、そう考えるのは、しごく当たり前のことではなかったのでしょうか。それよりも優先させなければならない何か大切な理由があるというのなら、それを教えて欲しいと思います。

 困っている人がいたら助ける、自分がされたら嫌なことは、人にもしない、そんな「当たり前」という言葉は、もはや死語になってしまったようです。そういった「当たり前」のことが失われてしまった社会は、自分の好きなようにして、カネのためなら人が死んでも構わない、人を殺しても構わないといった滅茶苦茶なことになってしまうのではないでしょうか。あぁ、今がそんな時代だったか。

 人生の経験を重ねて来た人たちは、自分が生きているのは後10~20年くらいなのだから、好きなことを何でもして良いと思っているのですか。ただカネ入れば良いと思って原発を誘致し、自分は恩恵を受け、未来に生きる人たちには核のゴミを押しつけ、迷惑をかけても構わないと思っているのですか。あなたたちから、「人に迷惑をかけてはいけない」と教えられました。せめて、あなたたちが教えてくれた「当たり前」の感覚を取り戻して欲しいと思います。

 私の言っていることは、「当たり前」のことを失ってしまった世の中に向かって言っていると受け止めてください。それと、これまで無知であった自分自身に対してもです。自分の親のような世代の人たちに向かって、悪口など言わせないで欲しい。

 原発を誘致した地域の顛末は、このニュースが暗示的に伝えているように思います。(画像をクリックすると、ニュース記事へ移動します。) 


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播州地区教師一泊研修会で学んだこと(振り返り) 

2016年01月28日 | 日記

 礼拝というと、私はこれまで式次第の通りに、定型句で行ってきたのかもしれません。自分なりに式次第を考え、目的も考え、言葉も考えたつもりですが、それがしばらくすると、ただ反復するだけになっていたのかもしれません。それはそれで、定着とか学習、習慣という意味があるのかもしれませんが、惰性になってしまうということもあるのかもしれません。

 私は、クリスチャンホームに生まれ、幼い頃より教会生活に慣れ親しんでいますので、礼拝に臨む態度としては「自然体」ではないかと思っています。自然体というのは、いわゆる熱狂的になって我を失うようなことではないという意味です。キリスト教の教派によっては、熱狂的になるのが当たり前の教派もありますので、私が教会生活を送った教派が、私に自然体が当たり前を思わせただけなのかもしれません。私は、自然体が良いとか、熱狂的なのが悪いとか、そんなことを言いたいのではありません。

 今週の初め、播州地区教師一泊研修会に参加しました。聖餐式を創ってみようというキャッチフレーズで、聖餐式について色々と講義を聞いて、話し合いが持たれました。具体的に聖餐式を創ってみようということで、そのための第一歩として、講師の指導に従ってイメージ作りがなされました。聖餐式であっても、礼拝でも、あるいは何をするにしても、どうすれば有意義なものができるかと考えることは大切なことではないかと思います。

 聖餐式の対象について、フリー、オープン、クローズドというように、色々な考えや立場があります。また、二重教職制という問題もあります。それぞれの考え方には、それぞれが正しいとする考え方があると思います。それぞれの立場から、という前提で、色々な考え出されたことを報告し合いました。そんな話し合いができる播州地区は、度量が深いと思いました。で、招きの詞を創ろうということで、スイスのバーゼル宣教団の隠退した教師たちが行っている聖餐式の式文を参考にしました。

 結論から言うと、何か新しい聖餐式文が創れたというのではなく、創ってみようという導入部分を皆で経験したということだったように思います。印象としては、聖餐式は楽しいんだ、感謝があるんだ、喜びがあるんだ、といったように、言葉を選んでイメージを伝えようとするアプローチが多かったように思います。私は頓珍漢なので、過越の食事のイメージで、「これから裏切ってしまうにも関わらず、そんなことも考えもつかずに飲み食いする有様」というテーマで考えてみたり・・・。まぁ、たくさん人が集まって、あれこれと話し合うのは教えられたり、気づかされたりして良いことだと思いました。

 私が考えさせられたのは、聖餐式とか礼拝とは、喜ばせたり、感謝させたり、悔い改めさせたり、感動の涙を流させたりと、そんなテクニックなのか、ということでした。礼拝が楽しくなければ、誰が来るのかということもあります。もちろん、礼拝とは楽しいものだと信じているからそう言っているのでしょうから、それをテクニックで伝えようとしているのだと思います。けれども、そう信じているから、そうでないものは間違っているとも言えないのです。そうすると、何も楽しいだけとも限らないのかもしれません。 

 私は、テクニックも大事だと思います。司式をする立場としては、スキルも求められるからです。礼拝をする側の人間には、色々な事情があります。笑いたいときもあれば、泣きたいときもあります。それらに、応じた礼拝もまた、礼拝なのだろうと思います。隣にいた加藤先生が、とっても素晴らしいことを言われました。「鍋だ!鍋を囲もう!」 なるほど。

 で、考えさせられたというのは、礼拝では、礼拝を大切にするために考え出されたテクニックも必要だけれども、テクニックが礼拝ではないということではないでしょうか。礼拝には、人のテクニックを必要としない、してはならない部分があり、それがむしろ大切な部分なのではないかと思います。上手い表現が思いつきませんが、テクニックが上手下手とか、好みとかが入る余地のない、無の境地のような部分を大切にしなければならないのではないかと思います。それは、決して人の考えを誘導したりしない、洗脳したりはもってのほか、礼拝する人が誰の目も気にせずに自分の意思で神さまに向き合い、神さまへの応答として自分の生き方を自分で決める自由があること、そのことから遠ざけてしまうようなテクニックなら、むしろ害悪ではないだろうかと思います。

 人の内側にあり、その中身は誰からも見えない、分からない、説明のつけようがない、いわば無の境地という礼拝の部分がどんなものなのかを伝えるテクニックも必要だと思います。どうすれば伝えられるのか分かりませんが。いや、もうこれで伝えられたのかもしれません。いずれにしても、そんな無の境地のような部分が礼拝にあることが大切なのではないかと思っています。後は喜ぼうが、泣こうが、感謝しようが、怒ろうが、それが自然体というものかもしれません。

 


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秘密の暴露か!

2016年01月27日 | 日記

 1月21日、自民党の山東議員が、・・・甘利明経済再生担当相をめぐる金銭授受疑惑に関し、自民党山東派の山東昭子会長は21日、「政治家自身も身をたださなければならないが、(週刊文春に)告発した事業者のあり方も『ゲスの極み』。まさに『両成敗』という感じでたださなければならない」と述べた。国会内で記者団に答えた。・・・と伝えられました。

 山東議員が言いたかったことは、①甘利議員は、政治家として身をたださなければならない。②告発した事業者のやり方が酷い。③甘利議員、告発した業者を両成敗して、たださなければならない。ということでしょうか。

 感想としては、①議員は、賄賂を貰って便宜を図るのが当たり前なので、甘利議員が賄賂を貰っていることを普通のこととして受け止めている。②告発者というのは、いわば共犯者なのだから、裏切られたと受け止めている。③政治家を裏切ったことへの復讐心に燃えている。・・・そんな感じがしました。

 山東議員の場合は、甘利議員が犯罪者として裁かれるべきと主張している点はマトモなのですが、告発者も同じように裁かれるべきとわざわざ言うところに、犯罪者特有の身勝手さを感じます。 

 


 

 1月23日、自民党の高村議員が、・・・「録音や写真を撮られていたりと、わなを仕掛けられたという感があり、そのわなのうえに、周到なストーリーが作られている」との見解を示した。・・・と伝えられました。

 高村議員が言いたかったことは、①賄賂の受け取りがあったのは事実。②その際に、記録や録音がされていたのは卑怯だ。③記録や録音によって甘利議員が犯罪者であるかのようなストーリーが作られている。ということでしょうか。

 感想としては、①議員という者は、常態的に賄賂を貰っているものだ。②その際に、記録や録音を撮るとは何事か。③賄賂なんて当たり前なのに、記録や録音によって議員側が悪者のように仕立てられている、これはワナだ!・・・そんな感じがしました。

 高村議員の場合は、裁かれるべきは甘利議員ではなく、記録や録音でストーリーを作って甘利議員を犯罪者のように仕立てた告発者が犯罪者だと言わんばかりのような印象です。山東議員と同じように、犯罪者特有の身勝手さを感じます。

 

 

 山東、高村両議員は、告発者を批判する論を展開していますが、両議員とも甘利議員が賄賂を受け取っていることを前提に話しをしています。これは、一種の秘密の暴露ではないでしょうか。もし、これほどの犯罪が裁かれないのだとしたら、警察も裁判所もお仲間だということなのでしょう。

チーン!


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