「罪の力に囚われていた」 ヨハネによる福音書20章19~23節
イエスさまが十字架で死んだ後、弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、家に引きこもって隠れていました。「恐れて、隠れる」というと、アダムとエバが神さまから「食べてはならない」と命じられていた木の実を食べた後、神さまが近づいてくるのを知って恐れて隠れたという物語を思い起こします。そこから、「恐れ」とは、神さまに対して罪を犯したことの自覚であると考えることができます。すると、弟子たちは、ユダヤ人を恐れもしましたが、何よりイエスさまを見捨て、逃げ去ってしまった罪意識に囚われていたのではないでしょうか。
イエスさまは、罪の力に囚われていた弟子たちに向かって「平和があるように」と言われました。今、弟子たちに必要なのは、罪意識から解放されたところの「平和」でした。そのために、手とわき腹をお見せになりました。手には十字架によってできた釘の跡が、わき腹には槍で突かれた傷の跡がありました。不思議なことに、弟子たちはイエスさまの姿を見て平安を取り戻し、喜びました。イエスさまは、怒って手とわき腹をお見せになったのではなく、穏やかにお見せなったのではないでしょうか。だからこそ、それを見て赦されたことを確信し、心のうちに平安を取り戻し、喜ぶことができたのだと思います。
イエスさまは、弟子たちに向かって、「父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わす。」そう言って、息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と教えられました。宣教とは、上から目線で教えるようなものではなく、とことん赦すことであると教えられているように思います。弟子たちは、イエスさまから赦された存在であるという確信に基づいて、イエスさまの愛と赦しの教えを宣べ伝え始めました。