融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

ぼくがラーメンたべてると・・・

2024年02月28日 | 日記

 「ぼくがらーめんたべてるとき」という絵本があります。画像をクリックするとリンク先をご紹介できます。作品の紹介は、

  ぼくがラーメンたべてるとき、地球の裏側でなにがおこってる?
  世界の子はなにしてる?
  遊んでる、働いてる、倒れてる…。
  長谷川義史が世界の子たちへ平和への願いをこめました。

 というものでした。

 

 

 そして、下の画像は、地球の裏側で起こっていることの一つです。画像をクリックすると、リンク先をご紹介できます。

 そしてまた、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか・・・、

 どなたでも礼拝にご参加くださいとか・・・。どうやらネジが外れたのかな。

 

 


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明日は礼拝です

2024年02月24日 | 礼拝のご案内

 明日2月25日(日)は、主日礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「四人の漁師」、賛美歌は「みどりもふかき」、「ああ主は誰がため」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 世界の紛争を見渡してみると、そこには民族差別や優生思想を感じることが多々あります。住んでいる地域や肌の色によって差別したり、奴隷にしたり、西洋人が優れた人種であると真顔で信じている人たちもいます。イスラエルの大臣がパレスチナ住民のことを「半獣人」と言ってのけたり、西洋人のアジア人蔑視があります。では、キリスト教徒が戦争をしないのかというと、ドンドンしているような状況があります。それらは、覇者への欲望に取り憑かれている一部の人たちや、今だけカネだけ自分だけの人たちによる犯罪行為です。

 私が「イエスさん」という言葉を使い始めた理由の一つは、キリスト教の権威的なものから遠ざかる必要があると考えたからです。権威は、上下を作り出すからです。そして、上下は犯罪行為を肯定する出発になります。「愛」には、上下がありません。「愛」は、平等なのです。事実、イエスさんは自分のことを「人の子」と称し、平等の関係でいました。イエスさんは、上ではなく同じなのです。だから、「イエスさん」なのです。このような考えが、やがて平和を創り出すなどと大言壮語はしませんが、あれやこれやと理屈を並べるより、とりあえずシンプルに「愛」に拘ろうと考えるようになった今日この頃です。

 


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「理屈でなく信頼」

2024年02月24日 | 聖書のお話

「理屈でなく信頼」 マタイによる福音書 4章1~11節

 イエスさんは、荒れ野で40日間の断食を行いました。それほどの過酷な断食を行ったのは、これから福音宣教を始めるにあたり必須のことであると判断したからです。過酷な断食を終え、疲労と激しい空腹に襲われたとき、悪魔から、第一に「石がパンになるよう命じたらどうだ。」、第二に「神の子なら神殿から飛び降りたらどうだ。」、第三に「世の全ての国々が欲しいのなら、私を拝んだらどうだ。」という三つの誘惑を受けました。

 イエスさんは、悪魔の誘惑に対する答えを通して、これから福音宣教を始めるにあたっての考えを明らかにされました。第一の誘惑に対しては、福音宣教にあたり、命と神の言葉、すなわち愛を同等とすると答えました。第二の誘惑に対しては、福音宣教にあたり、神を試すのではなく信頼すると答えました。第三の誘惑に対しては、福音宣教にあたり、数の力や権力を用いないと答えました。イエスさんは、福音を人間的な理屈によってではなく、神を信頼し、人を愛することによって宣べ伝えようとしているのです。

 


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明日は礼拝です

2024年02月17日 | 礼拝のご案内

 明日2月18日(日)は、主日礼拝です。午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「理屈で無く信頼」、賛美歌は「みどりもふかき」、「ああ主は誰がため」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 

 


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「国を建て直す」

2024年02月17日 | 聖書のお話

「国を建て直す」 使徒言行録 1章6~11節

 使徒たちは、イエスさんに「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねました。彼らが考えたのは、自分たちが信じる神さまによって導かれる国でした。その最高指導者は、イエスさんが就くものと考えたのです。それに対して、イエスさんは「父が御自分の権威によってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」と言い、続けて「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言いました。

 使徒たちは、国を建て直すために権力を振るうイエスさんの姿を想像しました。しかし、イエスさんは、この世の権力者が権力を振るうような形で国を建て直すというイメージを否定しました。そして、使徒たちにイエスさんが十字架によって命を賭して示した愛を宣べ伝えなさいと命じました。権威に頼って国を建て直そうとすると、人間の作った権威にさえ寄り頼んでしまうものです。権威が国を建て直すのではありません。愛に生き、互いに信頼し、互いに助け合う者一人ひとりの思いが国を建て直すのです。

 


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