融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は礼拝です

2015年02月14日 | 日記

 明日、2月15日(日)は、主日礼拝です。午前9時から教会学校、10時から讃美歌練習、10時15分から礼拝が始まります。メッセージは「生き様によって証明していた」、讃美歌は「恵にかがやき」(今月の歌)、「千歳の岩よ」、「賜物と歌を」です。礼拝後には、祈りの一時をもちます。その後、世界祈祷日但馬集会で用いる式文の読み合わせを行います。ご興味のある方は、どなたでもご参加ください。お茶の時間もあります。

 但馬地区、兵庫教区にある諸教会・伝道所の礼拝の上にも、お守りと祝福をお祈りいたします。



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「見えないものを信じていた」

2015年02月14日 | 聖書のお話

「見えないものを信じていた」 マタイによる福音書 17章1~13節

 社会では、様々な出来事が起こっています。大きな出来事が起こり、不安になればなるほど、人々は「見えるもの」を頼りにするといった傾向があるように思います。元々人は、自分の見たいように見て、思たいように思うものです。「10人10色」とか「三者三様」と言われている通りです。一つの出来事であっても、振り子の振幅のように、受け止め方にも幅があるものです。

 イエスさまは、山に登られたとき、ご自身の姿が光り輝き、モーセとエリヤと共に語り合うという神秘的な姿をお示しになりました。また、山を下りられるとき、弟子たちに「今見た姿を誰にも話してはならない」と言われました。そのことを受けて、弟子たちは「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と議論し始めました。一つの出来事を通して、理論を超越した現象があり、理論的な議論がありと、振り子の振幅のように、幅のある受け止め方をされたことが伝えられているように思います。

 人は、不安になり、心に余裕が無くなれば無くなるほど、「見えるもの」を頼りにする傾向があります。「見えるもの」とは物質的なもので、その頂点はお金と考えられているのではないかと思います。反対に、「見えないもの」とは物質的なものではなく、目には見えない神さまを信じる信仰ではないかと思います。昔の人は、「無の境地になる」とか「悟りを開く」と言って、物質的なものではなく、精神的なものを大切にしました。信仰とは、神さまを信頼する気持ちで満たされるということです。イエスさまの愛の教えを忘れないようにして、「見えるもの」に振り回されないで愛を宣べ伝えて歩むことができる一人ひとりでありたいと思います。

 


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