融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は礼拝です

2024年07月20日 | 礼拝のご案内

 明日7月21日(日)は、主日礼拝です。午前10時から礼拝が始まります。メッセージは「愛は永遠の命」、賛美歌は「イェス、イェス」、「飢えている人と」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。礼拝後は、延期していた7月の定例役員会があります。

 ガザで惨殺された人たちが、分かっているだけで3万数千人と発表されています。こういう場合、殺されていても数がカウントされていない人がその3倍以上いるというのが常識のようです。すると、恐らく殺された人たちは10万人以上いるということになり、パレスチナでは気が遠くなって気絶しそうな大量虐殺ジェノサイドが今も続いています。

 こうなった根源は、資源欲しさの政治的な領土的野心に他ならないと思いますが、その理由に宗教が持ち出されているところが気持ち悪いです。政教分離は建前で、実際は政治と宗教は両輪となっています。けれども、正統的なユダヤ教徒は、このような殺戮に反対しています。宗教とは、本来人々を幸福に導く筈のものですが、堂々と「自分さえよければ他人は死んでも良い」と公言するとき、こんなにも恐ろしいことが起こるものなのです。

 イスラエルの詐欺的なところはパレスチナ占領時点から始まっていることですが、最近では、あのドイツがどうなったんだという印象です。「戦争責任」というジャンルについては、見習うことが多いと思っていましたが、最近の方向転換ぶりには驚いています。それらの背景に、どうしても優生思想があって、「自分たちが一番優れているのだ」という考えから抜け出せないようです。それに加えて、どうしても逆らえない相手がいるという力関係も無視できません。これは、何もドイツだけの問題ではありません。これと同じ構図で、台湾有事が画策されていて、日本もどっぷりとその中に浸かっているところです。さて、この先はどうなるのか想像してみてはどうかと。

 結局のところ、「自分を愛するように隣人を愛せよ」というイエスさんの愛の教えを守りさえすれば、争いなど起こらないのかも知れません。他者を差別せず、自分がして欲しいと思うようなことを互いが行っていれさえすれば、世界も平和なのかも知れません。言い換えると、互恵の精神です。何だか、「文明人になることは西洋人みたいになることだ」という考えは、メッキが剥がれたように思います。これからの時代は、一極支配ではなくて、多極的で互恵の精神によって相互に支え合う世界に向かうことを願っています。個人的には、愛の教えを心に刻み、残りの人生を歩みたいものだと思う今日この頃です。

 

 


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「イエスの教えを聞く」

2024年07月20日 | 聖書のお話

 「イエスの教えを聞く」 マルコによる福音書 9章2~8節

 イエスさんは、山上で自らの姿が輝いて変貌しました。いつの間にかエリヤがモーセと共に現れ、イエスさんと一緒に語り合っていました。その神秘的な様子を目の当たりにしたペトロは、小屋を三つ建てて献上すると言い出しました。気持ちが高ぶり、反射的に礼拝して何かを捧げなければならないと考えたようです。しかし、それ以上の何かに思いを寄せることはありませんでした。そして、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という神さまの声が聞こえた後、あたりは普段通りの日常に戻っていました。

 一同が山を下りるとき、イエスさんは「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはいけない。」と弟子たちに命じました。イエスさんが復活するまで、何となく礼拝し、捧げることが繰り返され、それ以外のことに注意を向けることはありませんでした。けれども、十字架と復活、また聖霊降臨の後、イエスさんが教えた「愛」によって、エリヤが預言したことで権力者から命を狙われていた苦労や、モーセが民を導く際の重責に思いを寄せることができるようになりました。「愛」があれば、バプテスマのヨハネの悔い改めの運動にも思いを寄せることができると教えられているのです。

 


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明日は部落解放祈りの日です

2024年07月13日 | 礼拝のご案内

 明日7月14日(日)は、主日礼拝です。午前10時から礼拝が始まります。メッセージは「イエスの教えを聞く」、賛美歌は「イェス、イェス」、「飢えている人と」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。礼拝後、7月の定例役員会があります。

 日本基督教団では、7月第二日曜日を「部落解放祈りの日」と定め、日本社会に根強くある部落差別の解放を願って祈りを合わせることになっています。正直、部落差別のことは「寝た子を起こすな」と言って話題にもしないところが多いかと思います。教会は、福音を宣べ伝えるところであって、差別解消の声を上げるところではないとも言われています。 

 しかし、福音の中心は「愛」なのですから、愛が人々の心に根付きさえすれば、差別も解消する筈です。しかし、未だに差別がなくならないのは、厳しい言い方をすれば、教会が「愛」を伝えず、「信仰」という名の権威を伝え、この世の権威として存在し続けることの方を目的としているからではないかと思ったりします。

 話題を「部落解放祈りの日」に戻すと、部落差別からの解放をいくら祈っても、部落差別がなくなることはないと思っています。なぜなら、あらゆる差別がなくなってこそ、部落差別もまたなくなるものだからです。他に差別があるのに、部落差別だけがなくなるようなことは起こり得ません。だから、部落差別の解消を願うのなら、あらゆる差別の解消のために祈り、行動することが求められています。「部落解放祈りの日」とは、「あらゆる差別からの解放を祈る日」と読み替えるべきです。

 イエスさんの教えを信じる者は、教えの中心である「愛」に着目したいと思います。「あらゆる差別からの解放を祈る日」の礼拝では、イエスさんの「愛」を学び取り、誰かから強いられてではなく、自発的に愛と人権を尊び、差別解消に向かえる人間になれるよう祈りを合わせたいと願っています。

 


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最も大いなるものは愛である

2024年07月12日 | 日記

 「個人が書いているブログは信用ならない」と言われたことがあります。その人は、以下にご紹介するようなブログなど見ていないのだろうと思います。一方で「MHKは見ている」とのことでした。個人よりも大きな組織の方が信用できるということでしょうか。しかし、組織も内部で適当に解説委員とかの役職を作り、権威を持たせているだけのようにも思えます。内容も「・・・の狙いか?」と、論点をずらしてみたり、責任逃れの「?」を入れてみたりして、組織の要求に沿った御用記事を書いているだけのように受け取れます。結局のところ、大切なのは他人の考えはどうかではなくて、自分はどう考えるのか、そして自分の考えによってどう生きるのか、ということに尽きると思います。

 最近、組織の信仰というものの胡散臭さを感じるようになってきました。組織ほど、「信仰」というセリフを多用します。一方で、「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」というパウロの言葉が聖書に記されています。「信仰」よりも「愛」が大いなるものなら、どうして「愛」が前面に出て多用されないのでしょうか。それは、「愛」が前面に出て多用されると、組織が成り立たなくなってしまうからだと思います。教会という組織は、ヒエラルキーが柱になっています。イエスさんの弟子が偉い、そのまた弟子が偉いというように、権威を継承して神父や牧師が偉いという組織になっているのです。ところが「愛」は、ヒエラルキーを否定し、破壊します。互いに愛し合うのに、ヒエラルキーは必要ないからです。

 

*櫻井さんのブログをご紹介します。個人のブログです。櫻井さんも、「このブログが存在する価値があると感じられたなら、存続できるようにご支援をよろしくお願いいたします。」と言われていますので、お考えください。

 


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人を捨て石にする精神性②

2024年07月11日 | 日記

 自分たちの都合の良いルールに従わせることを「民主主義」と考える人たちは、台湾に介入し、「民主主義」のために中国に狙いを定め、兵器や戦闘員を配置し、中国包囲網を築いています。その中には、日本も含まれます。この結末がどのようになるのか、ウクライナで起こっている状況がヒントを与えてくれています。

 戦闘が始まると、台湾が戦場になり、酷く荒廃するでしょう。同時に、中国包囲網と称する日本を含めた周辺諸国の基地やミサイルが配備された地域も反撃され、それらの地域も荒廃するでしょう。沖縄にとっては、二度目の捨て石にされるという状況が起こるでしょう。最近、ロシアと北朝鮮が友好国条約を結びましたので、中国包囲網といっても、大きな穴が空いていることになります。そうすると、本土も無傷でいられる保障はなくなりました。もう、「本土のための捨て石になってくれ」は通用しません。日本海側の原子力発電所は、格好の標的にされてしまうことでしょう。

 経済制裁の反動についても欧州の例を考えると、大きなしっぺ返しが来ることが予想されます。中国からの輸入は勿論止まり、もしかするとロシアからの輸入も止まることになるかもしれません。それがどういう結果になるのか、ほとんどを輸入に頼る日本のことを想像するだけで、恐ろしくなります。いくら大本営発表というやつで不都合な真実が伝えられなくても、実生活の欠乏として否応なしに実感せざるを得なくなるでしょう。日本は、攻撃されると極端に弱い国なのです。そんなことは、誰でも分かることでしょう。だから、平和憲法を遵守することが大事です。

 ウクライナが捨て石とされ、台湾も捨て石にされようとしています。このことを嬉々として行っている精神性の人たちと、私たちは歩調を合わせていることになっています。それは良いことなのでしょうか。今後、沖縄を二度目の捨て石にしようとしている私たちの精神性とどう違いがあるのかを問い直す必要があるのか、ないのか・・・、そのようなことを考える今日この頃です。

 


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