明日7月21日(日)は、主日礼拝です。午前10時から礼拝が始まります。メッセージは「愛は永遠の命」、賛美歌は「イェス、イェス」、「飢えている人と」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。礼拝後は、延期していた7月の定例役員会があります。
ガザで惨殺された人たちが、分かっているだけで3万数千人と発表されています。こういう場合、殺されていても数がカウントされていない人がその3倍以上いるというのが常識のようです。すると、恐らく殺された人たちは10万人以上いるということになり、パレスチナでは気が遠くなって気絶しそうな大量虐殺ジェノサイドが今も続いています。
こうなった根源は、資源欲しさの政治的な領土的野心に他ならないと思いますが、その理由に宗教が持ち出されているところが気持ち悪いです。政教分離は建前で、実際は政治と宗教は両輪となっています。けれども、正統的なユダヤ教徒は、このような殺戮に反対しています。宗教とは、本来人々を幸福に導く筈のものですが、堂々と「自分さえよければ他人は死んでも良い」と公言するとき、こんなにも恐ろしいことが起こるものなのです。
イスラエルの詐欺的なところはパレスチナ占領時点から始まっていることですが、最近では、あのドイツがどうなったんだという印象です。「戦争責任」というジャンルについては、見習うことが多いと思っていましたが、最近の方向転換ぶりには驚いています。それらの背景に、どうしても優生思想があって、「自分たちが一番優れているのだ」という考えから抜け出せないようです。それに加えて、どうしても逆らえない相手がいるという力関係も無視できません。これは、何もドイツだけの問題ではありません。これと同じ構図で、台湾有事が画策されていて、日本もどっぷりとその中に浸かっているところです。さて、この先はどうなるのか想像してみてはどうかと。
結局のところ、「自分を愛するように隣人を愛せよ」というイエスさんの愛の教えを守りさえすれば、争いなど起こらないのかも知れません。他者を差別せず、自分がして欲しいと思うようなことを互いが行っていれさえすれば、世界も平和なのかも知れません。言い換えると、互恵の精神です。何だか、「文明人になることは西洋人みたいになることだ」という考えは、メッキが剥がれたように思います。これからの時代は、一極支配ではなくて、多極的で互恵の精神によって相互に支え合う世界に向かうことを願っています。個人的には、愛の教えを心に刻み、残りの人生を歩みたいものだと思う今日この頃です。