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融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日の礼拝はお休みします

2025年08月16日 | 礼拝のご案内

 明日、8月17日(日)の礼拝は、お休みします。


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明日の礼拝はお休みします

2025年08月09日 | 礼拝のご案内

 明日、8月10日日曜の礼拝は、お休みします。

 今週は、広島と長崎に原爆が投下されて80年を数えます。アメリカは、広島にウラン型の原爆を、長崎にプルトニウム型の原爆を使用し、民間人だろうがお構いなしに大量殺戮をやってのけました。80年も経ち、様々な情報が開示され、あの原爆投下は新型兵器の実験のために使用され、その先はソ連に投下する計画であったと言われています。

 原爆とは、核崩壊の際に発生する強力な熱線によって、そこら中を無差別に焼いて蒸発させるというものです。その後は、燃えかすから発生する放射線で生き残った人の遺伝子を破壊し、確実に殺すという残虐兵器です。その残虐ぶりは、現在イスラエルがパレスチナの人たちを確実に殺すという残虐行為と重なるものが感じられます。アメリカは先住民を皆殺しにして成立した国です。パレスチナの人たちを根絶やしにしようとしている人殺し大好きイスラエルと根っこが同じなのです。そんなことができるのは、自分たちだけが優秀な人種であると考え、それ以外を劣等種だから殺しても構わないと考える頭のおかしい人たちが政治を支配しているからでしょう。原爆投下から80年経ちましたが、どうやら時間は止まっていたようです。

 振り返ると、戦後日本でキリスト教が果たした役割の一つに、「国民総懺悔」というような運動があったような、なかったような。私の親の世代から伝え聞いたことを思い起こすと、日本は確かに戦争を行って罪を犯した。それは間違いのないことだ。だから、原爆を落とされたことによって降伏できたのだから、戦争の罪を悔い改めて、前向きに再出発をするのだ。みたいな理屈でした。しかし、言葉を変えると、原爆を落とした相手を責めるな、ひたすら自分たちが反省しろ、あるいは相手に思いっきり顔面をぶん殴られたとして、入院している状態で、自分も悪かったのだからご免なさいと言わされているようなものです。これって、アメリカのキリスト教からの・・・(以下、省略)。いずれにしても、ろくでもない理屈だと思います。実際、社会に影響を及ぼしたのかどうかは知りません。

 誰が、いつ、どこで、何のために、どれだけの人道に反することを犯罪行為をしたのか、そんなことを何となく曖昧にしつつ、またこれから80年を過ぎて90年、100年に向かおうとしているのだとしたら・・・(以下、省略)。歴史の舞台で侵略の手助けをして来た御用宗教としてのキリスト教ではなく、国や民族が違う人たちが互いに愛し合えるようなイエスさんの愛を宣べ伝えるキリスト教になれないものか、それならばきっと社会に役立つ宗教になれるのではないかと考える今日この頃です。

 


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明日は礼拝です

2025年08月02日 | 礼拝のご案内

 明日8月3日(日)は、平和聖日です。午前10時から礼拝が始まります。メッセージは「戦争を免れるのは愛」、賛美歌は「このこどもたちが」、「真実に清く生きたい」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。礼拝後、8月の定例役員会があります。

 8月になりました。8月の第1週は、教会暦で「平和聖日」です。先の戦争中、1940年4月1日に宗教団体法が施行され、戦時下の宗教団体として1941年6月に30あまりのプロテスタント教会が合同して「日本基督教団」が設立しました。その後、日本基督教団は、ご想像の通りに戦争協力の道を歩みました。「平和聖日」は、一人の人間として平和のために祈る日であると同時に、戦時中に教会が犯した過ちを繰り返さないための決意を新たにする日でもあると考えます。

 戦後になり、まもなく宗教団体法が廃止されました。日本基督教団も新しく歩み始め、戦争中に犯した過ちを振り返り、悔い改めもしました。1966年10月の第14回教団総会において、当時の総会議長であった鈴木正久さんの名前で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(いわゆる「戦争責任告白」)が出されました。しかし、教団内で賛否両論があり、現在必ずしも「戦争責任告白」が重んじられている訳ではありません。

 「平和聖日」で平和を祈るというのは、感覚としては自然なことかと思われます。しかし、世界中で止めどもなく戦争が繰り広げられている中で、改めて平和を祈るとはどういうことなのかと問われているように思います。非常に簡単に言ってしまうと、「平和を祈る自分はどこに立っているのか」という問いを、自分自身に持つ必要があると思うのです。誰でも自分や自分の家族や親戚は大切です。自分や家族の命が戦争で脅かされそうになるとしたら、誰であっても平和を祈るものです。しかし、自分や家族の平和を祈りつつ、他人を劣等人種と考えて差別したり、「アマレク人」と言って殺しても構わないと考えているならば、その平和の祈りとやらはお為ごかしの自己満足です。

 はっきり言って、一人ひとりが自分の頭がおかしくなっているのではないかと考えるのは非常に有益なことではないかと思います。そんなことはない、平和を祈ると心が平安になれるし、自分が救われるような気がすると考えている自分に気がついたなら、その人はもしかしたら1940年頃に生きているような感覚になっていないか自問自答してみるのが良いのではないかと考える今日この頃です。

 

 


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明日は礼拝です

2025年07月26日 | 礼拝のご案内

 明日7月27日(日)は、7月最後の礼拝となります。午前10時から礼拝が始まります。メッセージは「良いものは愛」、賛美歌は「さすらいの民よ」、「いともとうとき」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 最近よく、自分で調べたり、自分で考えて答えを出すべき、みたいなことを書いているように思います。それは、YouTubeを見て内容を鵜呑みにすることを指しているのではなく、様々な情報を調べて、それを一つひとつ積み上げて、串で通すように見通して、最後は他人の考えではなく創造的に自分の考えを持つという意味です。先のYouTubeの内容とは他人の考えであり、それを見て内容を鵜呑みにするのは自分で考えた答えを持たないということなのです。

 YouTubeの言うことを信じて(信じ込まされて)、あたかも自分の考えたことのように思ってしまう人も多いのではないでしょうか。世の中、忙しくて時間に追われている人が多いので、時間のかかる情報収集などできないのが現実なのかも知れません。それっぽい解説を聞いて、それを信じてしまうことの方が簡単だと思います。私も大袈裟に「様々な情報」なんて言っていますが、私の場合、外国語がスラスラ読めないのが玉に瑕でしたが、最近になって翻訳された海外の記事が読めるようになったことが良かった点です。具体的には、最低限ブログにブックマークしている箇所を毎日目を通しているだけです。その他にもいくつかありますが、それは不定期に目を通しています。すると、右も左も上も下もと、色々とな人の色々な視点に気づかされながら、最終的にそれらを一つひとつ積み上げて、串を通すように見通して、それらを総合して最後は創造的に自分の考えを持つようにしています。

 大袈裟に言うと、人として大切なのは、自分で何でも創造したものを作ったり、自分がやってみたいことを創造して行うことではないかと思います。それが一番楽しくもあります。人に「やれ」と言われてやっても煩いだけです。すると、たとえ失敗しても自分が好きでトライしたことなら責任の取りようもあるというものです。そうすることによって、人は成長できるのではないでしょうか。自分で調べるの話に戻ると、それは「情報」と言い表すことができます。情報を処理するには、哲学や倫理、人間力が必要です。情報を処理し、導きだされた答えは、その人の人間性が現れるものなのです。そのような意味で「愛」というのは、哲学でもあり、倫理でもあり、人間にとって必須のスキルではないかと考えています。

 一方で、人間にとって必須のスキルであると思われる「愛」が、すっかり影が薄くなり、軽く見られ過ぎているのではないかと感じる今日この頃です。

 


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明日の礼拝はお休みします

2025年07月19日 | 礼拝のご案内

 明日、7月20日(日)の礼拝は、お休みします。

 浜坂では、夏祭りの真っ只中です。明日は、花火大会も開催されます。伝統行事の麒麟獅子舞も披露されます。人手も多いことかと思います、事故などなく盛況でありますようお祈りしています。

 また明日は、参議院選挙があります。人々の暮らしが、とりわけ弱い立場の人たちの暮らしが守られるような社会となるように、有権者が候補者をよく吟味して投票したいものだと思います。

 私は、れいわ新選組を応援しています。その理由は、以前の参議院選挙で驚いたことがあるからです。私は知らなかったのですが、比例で特定枠という優先的に当選させるという枠があるそうです。それを利用して、重い障がいを持った船後さんと木村さんを当選させました。更に驚いたのが、それをしたために、れいわ新選組の代表を務めていた山本さんの票が足らなくなり、落選するというオチがありました。当時、れいわ新選組は小さな政党でしたので、そうなることも予想されたのですが、そうなることを織り込み済みで、重い障がいを持つお二人を国会に送り出したれいわ新選組の方針に、関心したことを思い出します。

 この度の参議院選挙でも、比例の特定枠に国際紛争の調停に関わった、言わば調停のプロ、戦争にならないようにするプロである伊勢崎さんという方を充てています。近年、世界が流動的になり、ウクライナ、中東での紛争が混迷し、東アジアにも紛争の火種が飛んで来ています。このような混迷を極めた状況下で、戦争をやったこともない人たちが、戦争について論じていることに、何をか言わんやという思いがします。このような状況であるからこそ、戦争にならないようにするプロが一人でも国会に必要ですし、国会で活躍して欲しいと心から願いつつ、友人や知人に「比例はれいわ」と勧めているところです。

 明日は投票日ですが、一人でも多くの有権者がこの時代と自分自身の良心に照らし合わせ、清き一票を投じて欲しいと願っています。

 

 

 

 

 

 


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