明日8月3日(日)は、平和聖日です。午前10時から礼拝が始まります。メッセージは「戦争を免れるのは愛」、賛美歌は「このこどもたちが」、「真実に清く生きたい」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。礼拝後、8月の定例役員会があります。
8月になりました。8月の第1週は、教会暦で「平和聖日」です。先の戦争中、1940年4月1日に宗教団体法が施行され、戦時下の宗教団体として1941年6月に30あまりのプロテスタント教会が合同して「日本基督教団」が設立しました。その後、日本基督教団は、ご想像の通りに戦争協力の道を歩みました。「平和聖日」は、一人の人間として平和のために祈る日であると同時に、戦時中に教会が犯した過ちを繰り返さないための決意を新たにする日でもあると考えます。
戦後になり、まもなく宗教団体法が廃止されました。日本基督教団も新しく歩み始め、戦争中に犯した過ちを振り返り、悔い改めもしました。1966年10月の第14回教団総会において、当時の総会議長であった鈴木正久さんの名前で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(いわゆる「戦争責任告白」)が出されました。しかし、教団内で賛否両論があり、現在必ずしも「戦争責任告白」が重んじられている訳ではありません。
「平和聖日」で平和を祈るというのは、感覚としては自然なことかと思われます。しかし、世界中で止めどもなく戦争が繰り広げられている中で、改めて平和を祈るとはどういうことなのかと問われているように思います。非常に簡単に言ってしまうと、「平和を祈る自分はどこに立っているのか」という問いを、自分自身に持つ必要があると思うのです。誰でも自分や自分の家族や親戚は大切です。自分や家族の命が戦争で脅かされそうになるとしたら、誰であっても平和を祈るものです。しかし、自分や家族の平和を祈りつつ、他人を劣等人種と考えて差別したり、「アマレク人」と言って殺しても構わないと考えているならば、その平和の祈りとやらはお為ごかしの自己満足です。
はっきり言って、一人ひとりが自分の頭がおかしくなっているのではないかと考えるのは非常に有益なことではないかと思います。そんなことはない、平和を祈ると心が平安になれるし、自分が救われるような気がすると考えている自分に気がついたなら、その人はもしかしたら1940年頃に生きているような感覚になっていないか自問自答してみるのが良いのではないかと考える今日この頃です。