「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2006・08・11

2006-08-11 08:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、昨日と同じ作家水上勉さんの「親子の絆についての断想」と題した文章の続きです。

 「五

 私はここでまた私にもどる。というのは、三年前に五十七歳で、私の捨てた子にめぐりあった経験をもっているからである。その子は、私が昭和十六年頃、酒のみのぐうたらだったころ、年上の女との間に出来た子で、当時私は肺結核と生活苦で、うちひしがれており、子を養育する力がなかった。その上、酒に溺れる文学青年で、年上の女を苦しめていたのだが、戦争がきびしくなる頃でもあったので、生後一年経ってまもない子を、年上の女の才覚で他家へもらってもらった。この子は男の子であった。二十三歳だった私には、まだ父親としての確たる信念みたいなものはなく、ぐうたら文学青年が、ゆきずり女を妊ませたはいいが、当時は軍国主義下ゆえ、堕胎は禁じられ、『産めよ殖やせよ』の国家の命令もあって、女に余儀なく子を産ませたものだ。この年上の女には、それなりのおもわくもあったのだが、如何せん、私の結核の昂進と、失職生活は、子に病気が感染する恐怖をも母親にあたえ、母親は、その子を彼女の友人を通じて子のない家の老夫婦に貰ってもらったのだった。
 私は疎開先で召集をうけ、二十年になって敗戦になり、伏見の輜重隊から解放されて上京したが、東京はわずか二年見ぬうちに焼土と化し、子を貰ってくれた人の家の附近を徘徊しても、焼野だった。尋ねる家もなかった。ところが二十三年に、偶然母親と会って子の消息をきくと、爆撃をうけて死亡したというのだった。彼女が見たわけではないが、世話してくれた友人の話だったそうだ。彼女は、子をあずけてからもちょくちょく会いにゆき、こんな写真を、その養父母からもらった、といって一枚のスナップ写真を見せてくれた。子は三つぐらいになっており、ちゃんとした服を着せてもらって白い模型飛行機をもって立っていた。私はその写真を見て声が出なかった。彼女は、千葉県出身だったので、爆撃の激しかったころは、生家へ疎開しており、子をあずけた町が焼失した日のことは知らなかったという。
 私が会った子というのは、その子なのだった。三十五年ぶりだった。母親があの時、死亡したといったはずの子が生きていたのだった。子は、四歳で釜石に疎開し、養父母の養育によって成人していて、やがて、瓦礫の東京に出て、養父母のいとなんでいた靴屋の店頭で働き、小学校、中学校を卒え、上級学校にすすまず、ラーメン屋をやり、劇団に入りながら青年時代をおくり、三十六歳で、私と邂逅した時は、渋谷に画廊を経営、世田谷松原で、小ホールと喫茶店をもつ、小劇場の主人になっていた。私は、彼が長い調査をすすめて、実父を求めて、約三十年を歩いてきた歳月のことを、彼からきいて、また声が出なかった。だまって、私とウリ二つの眼ざしや、物言いをする六尺近い(これは母に似ていた)長身の姿を見て頭をたれるしかなかった。その時、子はいったものだ。
『自分は、靴屋の養父母にもらわれて、小さい時から、古靴の山の中で育ち、養父が半皮打ちや、鋲打ちなどしているせまい店の土間に起居して小学校へ通いました。養父母はよく働く人で、いまはもう年をとってしまいましたが、幸い健在なので、大切にしています。自分にはその頃の生活があったので、どうやら、今日までやってこれたという感じがします。』
 私はデンマークのヒューン島の小さな町でみたアンデルセンの生家の、せまい靴屋の店を思いだして、声を呑んだ。」

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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