今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「メカニズムは人類の発明で、我々の抽象の才を示したものである。走るという機能だけを、自然界から抽(ぬ)きだして、それだけで構成したのが、自動車のたぐいである。
そしてメカニズムの欠点は、一つことしか出来ないところにある。たとえば鳥なら、飛びもするが歌いもする。ところが、飛行機なら飛ぶばかり、蓄音器なら歌うばかりで、聞く耳は持たない。
だから、おもちゃは無限に生まれる。走るもの、さらによく走るもの、さらに――と際限がない。バタのついたパンが、とび出してくるトースターが発明されれば、旧式のパン焼とは別に、も一つこれも買わなければならぬという寸法である。
私は自動車を認めていない。近ごろこれを珍重して、ほしがって、よだれをたらさんばかりの老若(ろうにゃく)があるのを苦々しく思っている。
自動車の便利は、何より歩くより早いということだという。けれども私は、この世に走る用事はない、この世は走るに値しないと、まじめに信じている。
万一あっても、それはメカニズムの助けをかりてはならない、と思っている。
自動車の持主が、世界に一人しか居なければ、つまり車が独占できるのなら、それは人より早かろう。その利は歩く人のなん倍だか分らない。
けれども、いくら秘密にしたところで、人はメカニズムを独占できない。人知のレベルは同一だから、原水爆は独占できない。アメリカが持てば、ソ連も持つ。中共もそのうち持つだろう。
自動車なら、アメリカ人はすでに、一人一台持つという。あんなにほしがっているのだもの、日本人も持つだろう。皆さん自動車の持主になれば、生活のテンポ(足並)は自動車並みになってしまう。
一人早くなるのではなく、日本中早くなるのだから、それなら、歩いた昔と同じである。よけいなものをこしらえて、よけいな金を遣って、免許だ、車庫だ、駐車場だと目の色かえて、歩いた昔と同じでは、損であろう。
自動車を持つ者は、持たない者をあなどるようだ。電気のつく時代は、つかない時代を憐れむようだ。電気は行燈(あんどん)の十倍明るいという。それなら現代人は古人より十倍幸せか。
古い譬(たと)えでは分るまい。つい十年前まで、テレビはなかった。テレビがないころ、我々は不幸だったか。その生活の内容は貧弱だったか。
痛くも痒くもなかったじゃないか。」
(山本夏彦著「日常茶飯事」新潮文庫 所収)
「メカニズムは人類の発明で、我々の抽象の才を示したものである。走るという機能だけを、自然界から抽(ぬ)きだして、それだけで構成したのが、自動車のたぐいである。
そしてメカニズムの欠点は、一つことしか出来ないところにある。たとえば鳥なら、飛びもするが歌いもする。ところが、飛行機なら飛ぶばかり、蓄音器なら歌うばかりで、聞く耳は持たない。
だから、おもちゃは無限に生まれる。走るもの、さらによく走るもの、さらに――と際限がない。バタのついたパンが、とび出してくるトースターが発明されれば、旧式のパン焼とは別に、も一つこれも買わなければならぬという寸法である。
私は自動車を認めていない。近ごろこれを珍重して、ほしがって、よだれをたらさんばかりの老若(ろうにゃく)があるのを苦々しく思っている。
自動車の便利は、何より歩くより早いということだという。けれども私は、この世に走る用事はない、この世は走るに値しないと、まじめに信じている。
万一あっても、それはメカニズムの助けをかりてはならない、と思っている。
自動車の持主が、世界に一人しか居なければ、つまり車が独占できるのなら、それは人より早かろう。その利は歩く人のなん倍だか分らない。
けれども、いくら秘密にしたところで、人はメカニズムを独占できない。人知のレベルは同一だから、原水爆は独占できない。アメリカが持てば、ソ連も持つ。中共もそのうち持つだろう。
自動車なら、アメリカ人はすでに、一人一台持つという。あんなにほしがっているのだもの、日本人も持つだろう。皆さん自動車の持主になれば、生活のテンポ(足並)は自動車並みになってしまう。
一人早くなるのではなく、日本中早くなるのだから、それなら、歩いた昔と同じである。よけいなものをこしらえて、よけいな金を遣って、免許だ、車庫だ、駐車場だと目の色かえて、歩いた昔と同じでは、損であろう。
自動車を持つ者は、持たない者をあなどるようだ。電気のつく時代は、つかない時代を憐れむようだ。電気は行燈(あんどん)の十倍明るいという。それなら現代人は古人より十倍幸せか。
古い譬(たと)えでは分るまい。つい十年前まで、テレビはなかった。テレビがないころ、我々は不幸だったか。その生活の内容は貧弱だったか。
痛くも痒くもなかったじゃないか。」
(山本夏彦著「日常茶飯事」新潮文庫 所収)