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対談「アートと社会とメディア」@ICC

2017年01月29日 | ♪&アート、とか

1月28日の土曜、ICCで開催された、エキソニモの千房けん輔氏とメディア・アーティストで東京芸大教授の藤幡正樹氏のトークイベント。お二方についての説明や対談実現への経緯などはここでは省いて、覚書的に記します。

まずは現在ニューヨークで創作活動を行っている千房氏から、当地(および世界)のメディアアートシーンについて。まず「メディアアート」という言葉自体がそれほど一般的ではなく、またその活動も意外に限られている。作品を扱うギャラリーや団体も限定的で、NYでもジャンルとしてはメジャーではない、という話。コンテンポラリーアートとメディアアートの間にも差があるそうだ。

こういった話は他でも見聞きしたこともあるのだが、日本におけるメディアアートの位置付けや、逆にここから遡って日本におけるアートの位置付け、捉えられ方を考えるにあたって、興味深い論点だと思う。

そしてこの辺から、日本の個人主義(というかそれが確立されていない、という視点で)への考察など、藤幡氏からのコメントが続く。これがすこぶる圧倒的。グサッと印象に残った言葉を羅列しようとしても、ちょっと切りがない感じだ。

例えば『個人主義を選択することは、孤独を選択すること。アートは孤独からしか生まれない』ーもともと「自分は他の人とは違う」の表明がアートだとすると、他者との違いを疎んじる社会では本来のアートは棲息しづらい。

また個人主義への認識などの流れで千房氏がコメント。『ニューヨークで創作活動をしていると、MacOSでMicrosoftのOfficeを動かしているようなぎごちなさを感じる』という言葉には実感がこもっていた。

さらに松宮秀治氏の「ミュージアムの思想」という本を取り上げて、西欧における近代はミュージアムとパラレルで発展してきたこと、そしてそれは芸術が宗教を置き換える過程で起こったことなどが明解に語られた。

そして話はいろいろ展開するのだが、個人的に印象的だったことのひとつが、アートやカルチャーに関する日本語の訳の問題。「美術」「芸術」「文化」など、漢文を扱えることでインテリとされた当時の識者が行った翻訳への指摘は、日本の「文化」の土台作りに大きく影響していることを改めて考えさせられた。

訳については、千房氏が日本語の「面白い」について発言。FunもInterestingも含まれた語彙は通用しづらく、また本質の正確な評価を妨げている、といった指摘は(好きな表現ではないのだが)目から鱗だった。

それから技術と表現の話。『産業化されない技術を「自由にする」のがメディアアートの役目』という藤幡氏の言葉にはハッとさせられた。話の流れは異なるが、千房氏の『ニューヨークのアーティストがビジネス的なこと(Googleの仕事など)をやると、「魂を売った」みたいに見られる』といったビジネスとアートの境界線の話を絡めて、興味深い。

で、あれこれとりとめなさ過ぎる覚書になってしまったけれど、最後の「境界線」は今回のキーワードではないだろうか。日本と、その外の世界との根源的な成り立ちの違いを、良し悪しではな、寄って立つ部分として知ったうえで創作や批評に臨まなければ、勘違いの継ぎ足しになってしまう。

ま、それはそれでユニークな面白さに辿り着く場合もあるのだろうが、ただ無邪気にCool Japan!なんて言ってはいられないし、もしかしたらそれはCold Japan(お寒いJapan)に転んでしまうかもしれない。

あー、それにしても自分が学ぼうとしているコミュニケーション論、メディア論との関わりもしっかりあって(久し振りにオングの「声の文化と文字の文化」の話に触れた)、内容の濃いセッションだった。このイベントが無料とはいうのは素晴らしすぎる。フリースペースの展示の充実も含め、今後ICCに通うことになりそうだなぁ。
コメント
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