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『ポートレイト・イン・ジャズ』について語ろう 7 新たなピアノ・トリオ形式の誕生と補足

2011年08月28日 | ビル・エヴァンスについて
8番目に録音されたのが、今ではスタンダードナンバーとして知られる
「サムディ・マイ・プリンス・ウィル・カム」
ディズニーの『白雪姫』のテーマ曲である。
エヴァンス自身がディズニー好きということも選曲の理由だろう。
デイヴ・ブルーベックが
1957年に『デイヴ・ディグズ・ディズニー』で取り上げている。
ウィキさんで調べてみると映画の公開が1937年ということで
約20年後にブルーベックが演奏し、その2年後にエヴァンスが取り上げたことになる。
これがきっかけというわけではないだろうが、
この演奏をライブで見たマイルスが、
のちに自分のアルバムでも取り上げ、自身の妻をジャケットにしている。
実はマイルスとエヴァンス・トリオとの共演も決まっていた節があり、
ライブを通してエヴァンスとマイルスとの交流は続いていたのだ。
エヴァンスはその後「アリス・イン・ワンダーランド」も演奏し、
ディズニー曲をスタンダード化している。

最後の9番目に「ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴ」を録音する。
この2曲はそれまでのアップテンポとはうって変わって
エヴァンスの曲がれるような旋律とトリオの演奏を楽しむためのものである。
じんわりと岩に染みいるような水滴のごとく静やかでかつ芯のある演奏は、
新たなピアノ・トリオの形式が1つにまとまってきていることを表しているようだ。

録音はおそらく半日前後で終わってしまったと思われる。
3人に支払われたギャラは約250ドルほどで、それを分け合った後に
解散ということになったとされている。
のちに名盤と呼ばれようとこのころのギャラはこの程度であったわけだ。

さて、補足である。
実はザ・ファースト・トリオと呼ばれるほどの伝説を持つトリオだが、
実際にスコット・ラファロ自身はトリオの正式メンバーとしての認識が
あったかどうかである。
このころはマイルスのように定着したグループを持つというのは珍しく、
あとはミュージシャン達の気心一つでつながっていた。
スコット・ラファロもエヴァンスとの演奏は非常に大切に思っていたし、
それを優先させようという意識もあったことは分かっているのだが、
実際には同時期にスタン・ゲッツのバンドでも演奏をしている。
ゲッツからもラファロはレギュラーとして誘われていて、現実に演奏もしている。

もう一つ、実はエヴァンスがリヴァーサイドと正式に専属契約を結んでいなかった。
もしくはオリン・キープニュースが結ばなかったという状況がある。
1959年に『カインド・オブ・ブルー』が録音されたが、
キャノンボール・アダレイとウィントン・ケリーは
オリン・キープニュースからコロンビアに送った手紙の中に
録音に参加することの許可とリヴァーサイドのクレジットを入れることが書かれている。
たった1曲しか参加をしないウィントン・ケリーについては言及され、
4曲も参加しているエヴァンスについては何も書かれていない。
つまり1959年の時点でエヴァンスは
リヴァーサイドの専属ミュージシャンではなかったという様子が見て取れる。

そんな現状がラファロにとってエヴァンスとのみに演奏に専念するという
意欲を持たせなかったのかも知れない。
まぁ、当時としては金銭のため複数のセッションに参加するのは当たり前であったが…

何はともあれ1959年の年末に新しいピアノ・トリオが生まれた。
やがてその形式はジャズ界に大きな影響を与えることになるのだ。


「『ポートレイト・イン・ジャズ』を語ろう」では以下の文献を参考にしました。
○『ビル・エヴァンス-ジャズ・ピアニストの肖像』
    ピーター・ペッティンガー 著 相川京子 訳    水声社
○『ビル・エヴァンスについてのいくつかの事柄』 中山康樹 著 河出書房新社
○『新・エヴァンスを聴け!』 中山康樹 著 ゴマ文庫
○『カインド・オブ・ブルーの真実』
    アシュリー・カーン 著 中山啓子 訳 中山康樹 日本版監修
                   プロデュース・センター出版社
○『定本 ビル・エヴァンス』 ジャズ批評編集部・編
○『超ブルーノート入門』 中山康樹 著 集英社新書

なお、「『ポートレイト・イン・ジャズ』を語ろう」についての文責は
このブログを書いている者にありますので、ご理解ください。

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