昨日の画期的判決に対し,一部からは,教育基本法が悪い,「改正」すべし…などという声があがっているようだ。それこそ,とんでもない考え方だ。今回の判決は,画期的ではあるが,恐らく,法学部生がこの問題について判決を書けと言われた場合,同じような趣旨の判決になるはずだ。つまり,憲法を素直に解釈すると国歌斉唱時に起立を強制されることなどありえない。というわけで,すばらしい判決の全文をまもなくこちら(←クリック)にアップします。反論する人は,せめて,判決を読んでからにしてくださいね。当事者の主張はとばして,まずは,前提事実と争点に対する判断をお読み下さい。
なお,日弁連が教育基本法改正案への反対意見書(←クリック)を発表しているので,一部を引用する。
■■引用開始■■
個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきことを求める憲法の下において、国家による教育内容への介入はできるだけ抑制的であるべきであり、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような教育への国家的介入、例えば誤った知識や一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことを強制することは許されない。この憲法上の要請を担保するものとして規定されたのが現行教育基本法の10条である。
同条は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」(第1項)、「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」(第2項)と定め、教育に中立性・不偏不党性を求めるとともに、教育現場における自主性・自律性を尊重すべきことを表明し、もって、国家による教育内容への介入はできるだけ抑制的でなければならないとする憲法上の要請を担保するものとなっている。
しかし、これと対比されるべき政府案16条は、現行法10条1項の「教育は、不当な支配に服することなく」との文言は残存させながらも、同項の「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」との表現については「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであ(る)」へと改変し、さらに、同条2項の「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」との定めは削除している。
その結果、政府案においては、政党政治の下で多数決原則によってなされる国政上の意思決定に教育を全面的に委ねることになりかねず、本来人間の内面的価値に関する文化的営みとして、党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきではない教育の在り方を損なうことが強く懸念されるとともに、教育行政の名で必要な諸条件の整備確立を超えて国家権力が教育内容に介入することも可能となり、これを抑制するための歯止めも失われることになる。
しかも、政府案の17条は、政府と地方公共団体が教育振興基本計画を定めることを規定しているが、これにより「教育目標」の、達成計画、達成度評価、効果的達成を促す予算配分などを通して、教育に対する更なる国家的介入を招きかねない。
立憲主義的性格を有する教育基本法においては、教育現場の自主性・自律性を尊重し、教育における自由な領域を確保することの重要性はいうまでもない。教育への国家的介入を抑制し教育現場の自主性・自律性を尊重する要となる教育基本法10条の意味を失わせる政府案は、立憲主義的観点から重大な問題がある。
■■引用終了■■
児童・生徒に起立を強制しろって人はさすがに少ないと思うんですよ。だっておばぁちゃんが日本軍人に殺されたっていう経験を持っているかもしれないんですから…。
児童・生徒に起立を強制できないのであれば,教員に起立を強制できるはずがない。教員に起立を強制することは間接的に児童・生徒に起立を強制することになるのは間違いないからです。
そんなに難しい話ではないように思うんですが…
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■■引用開始■■
個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきことを求める憲法の下において、国家による教育内容への介入はできるだけ抑制的であるべきであり、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような教育への国家的介入、例えば誤った知識や一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことを強制することは許されない。この憲法上の要請を担保するものとして規定されたのが現行教育基本法の10条である。
同条は、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」(第1項)、「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」(第2項)と定め、教育に中立性・不偏不党性を求めるとともに、教育現場における自主性・自律性を尊重すべきことを表明し、もって、国家による教育内容への介入はできるだけ抑制的でなければならないとする憲法上の要請を担保するものとなっている。
しかし、これと対比されるべき政府案16条は、現行法10条1項の「教育は、不当な支配に服することなく」との文言は残存させながらも、同項の「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」との表現については「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであ(る)」へと改変し、さらに、同条2項の「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」との定めは削除している。
その結果、政府案においては、政党政治の下で多数決原則によってなされる国政上の意思決定に教育を全面的に委ねることになりかねず、本来人間の内面的価値に関する文化的営みとして、党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきではない教育の在り方を損なうことが強く懸念されるとともに、教育行政の名で必要な諸条件の整備確立を超えて国家権力が教育内容に介入することも可能となり、これを抑制するための歯止めも失われることになる。
しかも、政府案の17条は、政府と地方公共団体が教育振興基本計画を定めることを規定しているが、これにより「教育目標」の、達成計画、達成度評価、効果的達成を促す予算配分などを通して、教育に対する更なる国家的介入を招きかねない。
立憲主義的性格を有する教育基本法においては、教育現場の自主性・自律性を尊重し、教育における自由な領域を確保することの重要性はいうまでもない。教育への国家的介入を抑制し教育現場の自主性・自律性を尊重する要となる教育基本法10条の意味を失わせる政府案は、立憲主義的観点から重大な問題がある。
■■引用終了■■
児童・生徒に起立を強制しろって人はさすがに少ないと思うんですよ。だっておばぁちゃんが日本軍人に殺されたっていう経験を持っているかもしれないんですから…。
児童・生徒に起立を強制できないのであれば,教員に起立を強制できるはずがない。教員に起立を強制することは間接的に児童・生徒に起立を強制することになるのは間違いないからです。
そんなに難しい話ではないように思うんですが…
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