情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)日隅一雄

知らなきゃ判断できないじゃないか! ということで、情報流通を促進するために何ができるか考えていきましょう

弱者を踏みにじる政策にノーといえる市民になろう!

2006-09-05 23:47:36 | そのほか情報流通(ほかにこんな問題が)
いわゆるグレーゾーン廃止を行うはずだった金融庁・法務省が,少額短期の貸し付けについては,28%という高金利を認める方向にあることが分かった。日弁連は直ちに会長声明を出したようだ。弱者踏みにじり政策を跳ね返しましょう!

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特例金利に反対する緊急会長声明

貸金業制度及び出資法の上限金利の見直しを検討していた金融庁及び法務省は、9月5日、自由民主党金融調査会貸金業制度等に関する小委員会でその内容を明らかにした。検討内容では、最大9年間はグレーゾーン金利が存続するとともに、「少額短期特例」、「事業者向け特例」として、いずれも年利28%を認める、というものである。

しかし、今回の法改正の目的は、最高裁判所が貸金業規制法43条(グレーゾーン金利)の適用を否定して利息制限法による債務者救済を図る判決を相次いで示したことを踏まえ、深刻な多重債務問題を解決するために行うものである。このことは、自由民主党・公明党の「貸金業制度等の改革に関する基本的考え方」や、金融庁「貸金業制度等に関する懇談会」で確認されてきた。しかも、8月24日に開催された同「懇談会」では、特例高金利の導入に反対の意見が大勢を占めた。

また、高金利引き下げの署名は300万人を超え、39都道府県、880を超える市町村議会が、高金利引き下げの意見書を採択している。

このような状況の中で、長期にわたって「グレーゾーン金利」を存続させたり、利息制限法の制限を超える「特例高金利」を新たに導入することは、同「懇談会」の意見を無視するとともに、高金利の引き下げを求める国民の声に逆行するものであり、甚だ遺憾である。

当連合会は、重ねて政府及び国会に対し、少額短期特例や事業者特例を設置しないこと、直ちに貸金業規制法43条のみなし弁済規定を廃止することを強く要請するものである。


2006(平成18)年9月5日

日本弁護士連合会
会長 平山 正剛

■■引用終了■■





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橋本勝の政治漫画再生計画-第36回-

2006-09-05 23:27:38 | 橋本勝の政治漫画再生計画
ブッシュの叫びが聞こえるかい

【橋本さんのコメント】
20世紀に殺したはずだよ、あの男
アメリカに抗した永久革命のあの男
21世紀の今
アメリカが押しつける新自由主義などゴメンだと
ラテンアメリカが燃えている
飢えと貧しさと差別に苦しみ続けた
人民たちの怒りが燃え上がる
病に倒れたカストロの変わりに
反逆のシンボルだったあの男が
無数のゲバラとなってよみがえる
アメリカの裏庭のはずのラテンアメリカに
次々生まれる左派政権
20世紀のドミノ理論の悪夢がよみがえる
21世紀の今
ブッシュの叫びが聞こえるかい



ヤメ蚊:なくなったのは39歳の時だったんですね
http://www.kt.rim.or.jp/~katsuma/jiten.f/Guevara.html







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ブラジル人入店差別150万円慰謝料判決の画期的さ

2006-09-05 21:43:12 | 適正手続(裁判員・可視化など)
宝石店主がブラジル人女性に対し,外国人であることを理由として退去を求めたことが不法行為にあたるとして慰謝料・弁護士費用計150万円を認めた静岡地裁宋哲朗裁判官の判決に触れた。人種差別撤廃条約の私人間・間接適用を認めた画期的な判決だが,その理由に個人的な人権観が盛り込まれているのも非常にユニークだ。これが判決?!と打ちのめされる内容。米国の人権に関する判例なんかは,こんな雰囲気なのかな…などと想像したりもした。非常にユニークなので一部引用する。(判例タイムズ1045号216頁,判例時報1718号92頁)

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第二、基本的人権の根拠付け
一1 人間は二本足を持つことから他の動物と異なり優れて大きな脳を持ち、生きていく本能そのものを失ったが、考える能力を身につけていることが出来、そのために社会的に独立して生活していくまではほぼ二〇年程度の長期間を要して成人し、また、その間に試行錯誤等により自己のよって立つ根拠を限りなく考える性質がある。
 思考は無限である。かくて、現実の世界が有限であることから無限に憧れ、また、現実の世界が不完全であることから完全無比を対峙させ、相対的世界から絶対的価値を夢み、西洋ではギリシア哲学を用いて宗教の世界において三位一体説を完成させ、東洋では徳をもって君子とするを標傍した孔子は、その生涯が必ずしも恵まれたものではなかったにせよ(「論語」貝原茂樹著講談社現代新書)、その弟子たちの権謀術策によるのと、広い国土を治める必要から、徳を備えた聖王が天命を受けて神通力を備えた小祝王として世を治めるという易姓革命の思想が前漢時代にほぼ完成した。すなわち、儒教は大いに変貌し人間関係の上下を規律するに便宜な国教としての地位を占めたといわれる(「儒教ルサンチマンの宗教」浅野裕一著平凡社)。
 こうした観念の世界では、あるいは荒唐無稽な空想の産物や論証不可能な代物や、釈迦やキリストのような聖人の説が人間性に深く感動を与えるものなどが混在するのであったが、このような聖人やとりわけ権力者にとってはその権威性ないし正統性を根拠付ける神話を産んだ。
 しかしながら、観念の世界のみに生きるのであれば、ともすればその固有の世界に閉じこもるあまり融通を欠く場合も生じた。宗教原理主義はその例である。
 かくて、中世のヨーロッパでは修道院に閉じこもってひたすら神の身許に仕えるとか、現実よりも理想を念頭においた生活が理想とされ、現実世界においてもこのような宗教的理念に支配される生活であったし、東洋でも儒教が久しく中国の国教となり、上下の階層をなした官僚制度が社会の停滞を招いたとされる。李王朝時代の韓国では、右中国の影響から世襲的な両班という官僚制度が社会の停滞を招いたと指摘されている(「儒教ルサンチマンの宗教」浅野裕一著平凡社。「歪められた朝鮮総督府」黄文雄著光文社など参照)。
 自然法とは、このような観念的思考が支配する中世以来の時代を背景として、歴史の世界で変転してやまない特殊的相対的な実体法に対して、人為から独立の自然的な事態ないし秩序または先験的な倫理的法則ないし価値に基づいて必然的に成立する規範であることと観念されて、存在した。
2 一六世紀に至るやデカルトが精神と物質について理解する方法を異にする二元論を説き、物質については数式等を用いて仮説を立て、これを実験等によって実証し、その正確性を証明する方法論が確立して自然科学が発達し、ニュートンの古典力学からアインシュタインの相対性理論や量子力学を産み、ひいては現実世界に応用するテクノロジーと結びついて産業革命を経、今日の物質文明の基礎が築かれた。また、その方法論が人文科学ないし社会科学にも応用されて、社会の法則性が或る程度明らかになった。
3 このことは人々の社会生活にも影響を及ばし、マルチンルターの宗教改革を嘴矢として西洋ではルネッサンスを経験し、キリスト教の一派であるプロテスタントが観念的な世行の価値よりも現実的な世界における実現すべき価値を見出して今日の資本主義繁栄の基礎を築いた。
 その間、フランス革命、アメリカ独立宣言は、天賦人権説を根拠に基本的人権を高らかに宣言するに至った。
 かくて、一九世紀は、神は死んだとニーチェをして嘆かせたように人間の理性を楽天的に謳歌する啓蒙的な思想が支配し、ルソーの説く人々の一般普遍的意思によって、国家は成立するという社会契約説が産まれ、国家の基礎は主権が国民に存する民主主義が至高の理念であり、国家を構成する人間は理性的存在であると観念される考え方が次第に支配するようになった。
4 しかしながら、人間は理性的な存在であると同時に、欲求に突き動かされて行動する非条理な動物的存在であることも事実である。
 このような人間の不合理的な側面に照明を与える学問は、前記事実に関する自然科学の方法論を借りて行われ、心理学、社会心理学であり、文化人類学であったりもし、また、その方法論を政治現象に採り入れた政治学であったりもしたが、さらには根本的にその人間の無意識層に究明を与えたのはフロイトを始祖とするユングなどの精神分析学派も産まれた(「ユング心理学の世界」樋口和彦著創元社)。
5 かくて、二〇世紀は科学とテクノロジーが結びつき、限りなく文明の利器を次々にしかも大量に産み出し、人々はこれを利用し、大量に消費し、また拝金主義を産みだし、ここに大規模な大衆社会を現出させた。情報に関してもおびただしいほどの情報が飛び交い、人々は断片的にこれを鵜呑みにするようになり、いままた、コンピューターの発達により、いよいよ情報は個人的に秘密的にもなってきた。生活に利便なものを与えられた人々はこれを身近な享楽的な分野に使用し、次第に他人との関わり合いや高遥な人生の意義や社会に対する責任というものを忘れるようになっていった(「二十世紀とは何であったか」小林道憲著NHKブックス)。
 したがって、今日、自然現象であれ、人間の営みである社会現象であれ、事実に関する面では、相当の進歩を得、人々の物質的な生活は豊かになったが、人間の持つ価値、倫理、道徳についての考察は相当な遅れをとっているといえる(この試みをしたものとしてつぎの論文があるが、人間の起源と自由意思の誕生、さらにそれより産れた価値の問題について考察の筆を進められていたところ、その段階で筆が中断されていることを考えれば、価値の問題は相当の難問であることを示唆する。「人間の科学と哲学」小林直樹著法学協会雑誌112(1・1)1~112(8・58)1076。なお、「現代世界と倫理」加藤尚武・松山寿一編晃洋書房。これについても充分でない気がする。特に差別についての倫理には触れていない)。
 人間は社会的動物である。社会の一員として他の人々と共に生活していくためには、法律、倫理、道徳等の社会規範を習得してこれを遵守し、また、価値を追求して行かなければならないのは避けられないのである。
 これについては、気の長い話であるが、世界の叡知をして、綿密に人間の価値の理論と実効性のある方法をDEBATE等により高めていく他はない。
 古代ギリシアの女神が開いたパンドラの箱より飛び出した精霊達の邪しまな行為は一九世紀および二〇世紀の叡知によって漸く元の鞘に収まったかに見えたが、その精霊の後裔達の新たにまき散らしたカオスについてはなお数多く現存しており、世界の叡知がなお一層の討論によって価値の創出、道徳倫理の発見に務めなければならないと考える。

二1 沿革的には、基本的人権は当初は根拠付けとして、或いは天賦人権説だとか、自然法だとかいわば概念的に説かれてきた。今一歩という感がしないではない。
 現在それは法哲学者によってつぎのように説かれる(「法哲学概論」加藤新平著有斐閣)。人間は本来、それぞれ特有の体験と自由な思考によって自己の独自の世界を作り、そして自立的に意思を形成し得る精神的存在者として、互いに比較計量できない固有の存在意義を持っている。人間は一人一人独自の小宇宙であり、かかるものとしてかけがけのない価値を持つ。ところで、全ての人間がかけがえのない価値をもつということは、全ての人間の平等、自由を意味する。全ての人間は、生存への権利、自己の判断、創意によって自己を実現する権利を平等に持つ。つまり、自律的に善悪を判断し、そして、普遍的交互的に調和し得るかぎり、自由に自己の善と信ずるところを行うことができる。この際、自由と平等の価値が各々全ての個人の人格の尊重という本来の存立意義を満たすためには、両者互いに他を必要とするという相補性の関係にある、というのである。相当実証論的になった。
 右のうち、自由については個人の問題であるから理解し易いが、平等のためには人間的共感や連帯感情を持つことが必要である。つまり、私はかけがえのない人間である。あなたも私と同じようにかけがえのない人間であると。人間の相互理解や、思いやりは、心理学者の説明では、人間の持つ共感感性であるというのである。

■■引用終了■■

…まだまだ続く。この人権観が結論にどのくらい関係があるのかな…と期待するのだが…。

こういうユニークな裁判官にあったらドキドキするでしょうね…。







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続・法テラスとの契約を拒否する理由~弁護人依頼権を維持するために…

2006-09-05 01:11:34 | 適正手続(裁判員・可視化など)
法務省管轄下の法テラスが国選弁護人を指名することについて,多くの弁護士が反発を強めている件で,反対派のチラシがファックスされた。賛成派の匿名コメント(ここ←クリック)と比較すると実名入りの反対派のコメントの迫力の圧倒的な違いがはっきりする。


■■引用開始■■

●「指定弁護人の前歴」大塚一男弁護士(東京1期)
 今春,二審国選弁護で実刑破棄,執行猶予の判決を得た。しかし,この秋からの新国選はやらないと弁護士会に何度も伝えた。新制度では法務省のワクグミにはめこまれてしまう。弁護活動の自由も,弁護士自治の鉄則も侵されるのではないか。新制度では憲法の定める「国が附する」に該当しなくなろう。法務省下の検察官が出廷し,それと闘う弁護人が法務省下の組織に従って選ばれ,カントクされては憲法に適合しなくなろう。
 昭和16年(1941年)治安維持法が改正され,弁護人は司法大臣が指定した弁護士から選ぶと定めた。同年7月1日付で693名の弁護士が指定された(『法律新聞』7月25日号)。こういう前歴を持つ司法省の後を継ぐ法務省下の国選制度の将来に危険なものを感じる。一筆したしだい。(松川事件主任弁護人)


●「批判をかわす欺瞞」坂元洋太郎弁護士(山口18期)
 山口県弁護士会の国選弁護契約を呼びかける臨時総会宣言が,日弁連ニュースや刑弁センターで取り上げられている。しかし,宣言は,司法支援センターが「国営の弁護士統括機関」にもなる懸念も表明し,弁護士自治を堅持し「国家権力とも対決…弁護活動の独立」を守る「決意」を示すが,具体的な対応体制は全くない。単に批判をかわす欺瞞であった。
 弁護人依頼権は憲法上の基本的人権の1つとして保障されているもので,「国民の理解を得ることができる弁護活動の適正確保」ということで制限されてはならず,国選弁護を訴追機関を傘下におく法務大臣の認可を受けた業務方法書などで縛られた「国選弁護人契約弁護士」に限るというのは,憲法上大きな疑義がある。会内外の真剣な論議が切実に求められている。


●「失うものがあまりに大きい…」打田正俊弁護士(愛知25期)
 刑事事件の大部分が司法支援センターを介して行政の統制下に入ることが由々しき事態であることは勿論,全国統一の法律相談窓口であるコールセンターや法律扶助事件を通じて,民事紛争の大部分にまでコントロールが及ぶ危惧さえも感じる。
 国家権力と国民の相克関係を意識しない国民が増えてきていると感じるが,その関係は一層深刻になってきていることに目を向けるべきで,このような現在,弁護士業務の自主性は逆に重要度を増してきている。
 弁護士会が積極的に関与すればセンターをコントロールできるというのは,法律家に許されざる幻想である。
 だから私は,センターと契約しない。


●「『司法改革』のなれの果て」弓仲忠昭弁護士(第一東京31期)
 法務省監督下の「弁護人」にはなりません。
 弁護士登録依頼27年,国選弁護,当番弁護士,民事刑事の扶助事件をほぼ絶やすことなく,担当してきましたが,法務大臣の認可を要する規則に基づき法務省の監督を受ける仕事-支援センターとの契約-は断固拒否です。「司法改革」の「なれの果て」に嘆息しつつ,現状を打開し,国選弁護人推薦権を取り戻すために,契約拒否に賛同します。人権擁護のために先人の闘い取ってきた「弁護士自治」(権力との対峙がその本質です)を投げ捨てるわけにはいきません。支援センターとの「契約拒否」運動の一層の前進で,「非契約弁護士」の国選弁護担当の道を切り開き,更には,法務省管理の支援センター「解体」を展望したいものです。


●「センターは解体されねばならない」下林秀人弁護士(東京32期)
 東弁で当番弁護士制度がスタートした当初から,私は率先して当番弁護士活動に取り組んできた。土・日の三会連絡担当(今はない)も喜んで引き受けたし,委員会派遣の重大事件も担当した。国選事件でも原則的な弁護活動に徹してきたつもりだ。
 「現場で闘ってこそ弁護士」。「どんな被疑者・被告人も,誰か(弁護士)が弁護せざるを得ない」。自分を駆り立ててきたこれらのことばが胸に突き刺さる。今でも迷いは尽きないが,「国選弁護人契約」は拒否する。弁護士自治を破壊する司法支援センターは解体されなければならない。


■■引用終了■■


本気で弁護活動に取り組んできた方々の声を執行部はどう受け止めるのか?




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