物を捨てるのは好きだ。
自分にとって無用なもの、無関係なもの、あまつさえ、目にすると不愉快にさせられるようなものと
おさらばできるのはせいせいする。
「自分は今、無駄な物に囲まれていない」という実感は、
「自分の生活をきちんとコントロールできている」という実感につながり、すがすがしい。
でも、単に「捨てる」だけじゃ、やっぱりダメなんだよな。
会社で、オフィスのレイアウトを変更することになり、ロッカーの整理を部員総出で行うことになった。
このロッカー、まったくと言っていいほど誰にも管理されていなくて、
すでに他部署へ異動した連中が残していった物が雑然と詰め込まれている。
だからやることの実態といえば、「整理」というより「処分」で、
ゴミ袋に次々と物を放り込んでいくこの作業は、やっていくうちに拍車がかかりがちなものだから、
最初のうちこそ、ファイルなら綴じられた中身を、ディスクなら1枚1枚のラベルをチェックしていたのに、
しまいには棚からごそっと抱えられるだけ抱え出して、そのままゴミ袋に直行、ってことになる。
確かに、ここ1,2年は使われた形跡のない物ばかりで、おそらく今後も使われることはまずないだろうから、
思い切って捨ててしまうというのは正しい判断であるんだけど、なんだかやりきれない。
「『保存』と『保管』は違う」と言った人がいて、これはなかなかの名言だと思う。
保存:そのままの状態でとっておくこと。
保管:物品を預かって、傷つけたり失ったりしないように保存・管理すること。
物をただあるがままに置いておくのが「保存」、物を系統立てて管理して置いておくのが「保管」、
といったところか。
その伝でいくと、このロッカーの中身は「保存」されてはいたが「保管」されてはいなかった、と言える。
物をしまう最初のところから、「保存」と「保管」の分かれ目は決まる。
その時すでに不要な物ならそこに入れるべきでないし、
必要なものなら、いつでもわかりやすく参照できるよう、しまい方に秩序を与えねばならない。
しかし、何も、物のファイル仕分けに時間をかけろとか、分類のラベル貼りに精を出せとか、
まるで「仕事のための仕事」のような特段の作業に励むまでもなく、それを実現することは可能だと思う。
つまるところ、「しまう時の記憶」と、「引き出す時の記憶喚起」が一致さえすればいい。
「あれはどこにしまったんだっけ…?」と記憶がなくなってしまうところから
ロッカーの「スラム化」は始まるのだから、しまった時の記憶を鮮明に保つことができるか、
その記憶を容易に引っ張り出すことさえできればいいのだ。
そのためには、簡便でわかりやすいルールを作り、そのルールに則って片付ける。これが一番。
赤・青・黄のボールがあれば、「色別にしまう」という簡単なルールを作って保管すればいいところを、
一緒くたにしてしまい込んでしまうものだから、後になってごちゃまぜになった塊を見てうんざりし、
「全部ゴミ箱へ直行」となっちゃうわけだ。
考えてみると、「整理法」とか「収納術」という言葉が独立して存在することが不思議だ。
それは職場なら「仕事」と、家庭なら「家事」と密接に紐付いているはず。
「効率よく仕事・家事をするために整理法・収納術を会得する」って発想はそもそもおかしくて、
「効率よい仕事・家事に努めれば物・事はおのずと整理されるはず」というのが真実だろう。
物を捨てるには、それを「最後の最後まで使い切った」という満足感も必要だと思う。
今回のロッカー整理で、中身さえ抜けばまだ充分使えるファイルやバインダーなどの文具類、
使うべき時期に使い切るべきだったノベルティー類なんかが大量に処分となり、心が痛んだ。
「物を捨てるのは好き」と言っても、「浪費好き」とはやっぱり違う。
我が家を見てみれば、家電のほぼすべてが、ずっと使い続けて買い替えていない「一代目」だし、
自転車も16年、車も14年乗り続けている。
高校時代のジャージもいまだに着てるしね。
もうおさらばする物についても、ペットボトルや食品トレーや牛乳パックはリサイクルに回すし、
紙類やプラスチック類は分別する。「捨てられる身」にとって「最善の最期」を気に留めているように思う。
「物を捨てるのは好き」と言っても、捨てるべき物が身の回りに存在している状態は嫌い。
そういう意味では、「物を捨てるのは嫌い」なのかも知れない。