tokyo_mirage

東京在住・在勤、40代、男。
孤独に慣れ、馴れ、熟れながらも、まあまあ人生を楽しむの記。

路上で「人がいても平然と歌を歌える」若者が増えてやしないか?

2017-05-31 16:45:46 | 物申す
ここ何年か感じているのだが、路上で「人がいても平然と歌を歌える」若者が増えてやしないか?

いわゆる路上パフォーマーのことではない。
僕からすると「奇行」としか思えないのだが、
路上で自転車に乗りながら、また、歩きながら、歌を歌っている若者とよく遭遇するのである。
その歌というのも、鼻歌のレベルではない(それぐらいなら僕だってする)。
遠くからだと「何か叫んでいるのか?」と誤解しそうなほどの堂々たる「発声」である。
しかも、周囲に人がいると気づいたら、少しは恥じ入って歌うのをやめてもよさそうなものだが、
彼らは決して歌をやめない。
一心不乱に念仏を唱える和尚のような集中力で、朗々と歌い続けながら去っていくのだ。

こういうシチュエーションで歌を歌う人種というのは、たとえば、
鯔背を気取って杉良太郎を口ずさみながら自転車を漕いでるそば屋の出前のおっさんとか、
ある種の「周囲への自己キャラクターアピール」を属性として持っている人々だと僕は思っていた。
ところが、「歌う若者たち」はそうではない。
彼らは、周囲のことなど一切「我、関せず」なのである。
「私は堂々と歌を歌っていますけど、それが何か?」といった風情。
もしも呼び止めでもすれば、「あなたはなぜ私の個人的領域に立ち入って来るのか?」
と迷惑がるような怪訝な表情を浮かべるに違いない。

彼らはまさしく「傍若無人」なんだと思う。
字面通り、「傍に人無きが若し」。
周囲の人間の存在を、完膚なきまでに黙殺できるのだ。
周囲に人がいようがいまいが知ったこっちゃないし、
公共空間での唐突な歌声の現出に戸惑いを覚える人がいようとも、知ったこっちゃない。

僕はこのような人たちとまともなコミュニケーションが取れそうな気がしないし、
差別でも侮蔑でもなく、彼らは何らかの障害や疾患を抱えているのではないかと
本気で思っているのだが、
果たしていったい、彼らは何なのだろうか?

とりあえず、今後はすれ違いざまに「うるさい!バカ!」と怒鳴りつけてみようと思っている。
公道上と自宅の居間では振る舞い方が異なるということを、彼らは理解できるだろうか?


一人暮らし長すぎ“あるある”

2017-05-30 16:03:28 | 雑感
一人暮らし長すぎ“あるある”。あるいは、一人暮らし長すぎ後遺症。

・家に帰ってきて玄関に入った途端、後ろ手ですぐさま、内カギをしっかりロックしてしまう。
 もはや無意識に。
 サムターン(つまみ状の内カギ)なら閉めても外からキーで開けられるが、
 ドアガード(レバー状の内カギ)だと開けられない。家人を閉め出してしまう。

・トイレのドアは開けっ放しが標準
 ドアを閉めて用を足していると息苦しく感じてしまう。
 家人の気配がなければ開けっ放し。足音が聞こえてきたら慌てて閉める。
 また、トイレを使わない時も、ドアを開けておく方が採光も通風も確保されるので、
 その方がよいと思ってしまう。

・昔の彼女からのプレゼントを知らんぷりして使っている。
 僕は食器はわりと同じトーンで揃えている。全部シックだ。
 だから、かつてプレゼントとしてもらった「ポップな色遣いのカップ」など、
 そのラインナップの中ではいかにも浮いている。
 捨ててもいいのだが、焼き物は燃えて灰にならず埋め立てゴミにしかならないから、
 まだ使えるものをゴミに出すのには罪悪感を覚える。
 ヒビが入っても欠けても茶渋がついてもいいや…と思うと、かえって気軽に使えたりする。
 「黒い箸と赤い箸のセット」なんかも、いかにも「赤いのは今まで誰用だった?」となりそうだが、
 気づかないのか、気にしないのか。

・細かすぎる独自ルールが構築されている。
 テレビ台にはHDDレコーダーが収納されているが、動作時に発生する熱をこもらせないよう、
 レコーダー収納部の扉は閉めない、とか、
 洗濯用粉末洗剤は消臭剤の代わりになるので下駄箱にしまっておくとか、
 その日着たジャケット類はいきなりクローゼットにしまわずに、一晩窓枠に吊るしておくとか。
 相手に強要はしないけど、「その奇怪な行動には意味がある」ことくらいは説明する。 


電車の中で気になった“大喜利広告”

2017-05-29 16:42:57 | 今日の出来事
電車の中で見かけ、気になった大喜利の広告。
とある自動車教習所のもので、「ふきだしの台詞を考えてください」

最優秀賞は賞金5万円、優秀賞でも賞金1万円だって!
思わず、3つほど回答を投稿してみた。

・「ビン状の物」を何に見立てるか
・「這いつくばっている人間の姿勢」をどう見立てるか
・「ドイツ」(これもネタだと思うが)をどう見立てるか

が回答のポイントだね。3つの回答それぞれに違う角度をつけてみた。

見事ひっかかったら嬉しいな。
自分のよりつまらない回答が賞を獲ったら許せないな。


とある軽トラ生活者の奇妙な言い分(昨晩のNHK「所さん!大変ですよ」)

2017-05-26 15:55:10 | 物申す
昨晩のNHK「所さん!大変ですよ」。テーマは「人生の楽園!?謎の“改造軽トラ”」。

軽トラの荷台に載せることができる小屋を手作りする人々が増えている。
わずか1.6畳のスペースに、ベッドはもちろん、水回りや電気まで完備し、
移動しながら暮らすことができる「モバイルハウス」だ。
退職後、旅行を楽しみたくても余裕がない高齢層や、
自分の書斎が持てない中年サラリーマンなどの心をつかみ、
作り方を教えるDIY教室は、毎回、満員御礼だという。
小さな車体に多くの希望を載せた軽トラの摩訶不思議な世界。(番組HP)


この「軽トラハウス」、ホームセンターで手に入る材料で自作可能で、費用は数万円~20万円で済むらしい。
寸法と最大積載量さえクリアできれば、「車体の改造」ではなく、「貨物」という扱いになるそうだ。
退職後に日本縦断の旅に出た夫婦、ひとりの時間を確保するために書斎として使っている一家の父親など、
その用途は微笑ましい。

中にはこれを「住み家」としている人もいる。そのひとり、ある出演女性の言い分が引っかかった。

彼女は東日本大震災の時、「それまで享受してきた便利さに疑問を抱き」、
「自分の暮らしは誰かを踏み台にしている。今あるもので充分生活していける」と、
この軽トラ生活を選んだのだという。

「誰かを踏み台にしている」と悟ったから、誰にも負担をかけぬよう、
「自給自足」で自己完結できる生活を始めた…とでもいうのなら、話は分かる。
しかし、この軽トラ生活を送ることが果たして、「誰かを踏み台にしていない」ことになるのだろうか?

軽トラで道路を走ることも、行く先々で駐車スペースに車を停めて宿泊することも、
そして何より、自前の上下水道を持たない生活であるがゆえの日々の炊事や排泄も、みんな、
「誰かの負担に基づいて作られたもの」を利用しなくては成り立たないと思うのだが。

そう、彼女の言う、「今あるもので充分生活していける」の「今あるもの」とは、
「誰かの負担によって築かれた社会資本」を指すのである。
それに寄りかかることを前提とした生活というのは、「誰かを踏み台にしていない生活」どころではない。
その正反対の、「誰かを踏み台にしているからこそ成り立つ生活」、
そしてまた、「誰かから踏み台にされないように立ち回る生活」ではないか。

彼女はディレクターの前で1か月の出費を紙に書き出していき、
「わずか3万円しかかからないんですよ」と言う。
だが、その費用項目には、当然のごとく、税金も、社会保険料も書き込まれていない。
(たまにアルバイトはしているようだから、全く納税していないわけでもないだろうが、
少なくとも彼女の意識の「出費」の中には、そうした概念は含まれていないと見える)

「誰かを踏み台にした生活」がいけないと言っているのではない。
人は真の自給自足生活でも遂げない限り、誰かを踏み台にしなければ生きていけないのだから、
所詮は「程度問題」に過ぎない。
だが、「誰かを踏み台にしている」事実を批判的に捉えているのなら、
彼女は言行不一致をきたしていると思う。
猛暑の日、エアコンの効いた施設に入り込んで涼んでおきながら、
「私は電力を使う社会に疑問を感じています」と、団扇でパタパタ扇ぐ真似事をしている
…そんな感じの滑稽さを覚えるのだ。

たとえばの話、「無為徒食ですが、世間の恩沢に浴して生きています」とちゃっかり言えてしまう人間は、
図々しくはあるけれど、人によってはまあ、憎めないところもあるかも知れない。
でも、そのように生き延びるつもりなら、自分の境遇に対する一服の「含羞」は必要だろう。
「現代社会は人を踏み台にしている」と高邁な批判的御託を並べながら、
その社会の便益にはしっかりあずかって憚らない人間とは、随分と臆面もないものだよなあ、と思ってしまう。

僕は世捨て人に憧れながら、それになり切れないでいる人間だが、その自覚があるゆえに、
「エセ」の“世捨てパフォーマンス”には、このように厳しい目を注いでしまうのだ。


その避難訓練じゃ意味がない

2017-05-25 15:14:33 | 雑感
会社が入居するビルで避難訓練があったが、実施方法が解せない。
「混雑するから」という理由により、2つある非常階段のうち、自分のデスクから離れた方の階段を使えという。
2つの非常階段は、どちらが使いやすくどちらが使いにくいというものではないから、
この「区分け」は、あくまで便宜的なものに過ぎない。
また、地上出口はいくつかあるものの、使う出口を1つに限定され(これも便宜的に)、
さらに、地上に出てからも最短距離で避難場所へ行ってはならず、ぐるっとビルの周囲を迂回せよという。

これでは現実味が乏しいではないか。
覚えていられるかどうかも怪しげな複雑な迂回経路を歩かされたのでは、本当の非常時に役立たない。
本当の緊急時には正確な誘導アナウンスだって期待できないかも知れない。
煙に巻かれたり、サイレンが鳴り止まなかったりしてパニックに陥りそうになっても、
自分の「体が覚えたこと」を粛々と引き出して、実践に移せるようにならなければ、訓練の意味がない。
この訓練は、「実践」を見据えたものではなく、「訓練を成功させるための訓練」に成り下がっている。

僕は混雑するエレベーターを回避するために日頃から階段で地上へ降りることも多いので、
(当然、ムダのない経路で、だ)それが一番の避難訓練になっていると感じた。
だから、今回の避難訓練には参加しなかった。

日本人って、こういう、手段が目的と化した=自己目的化した行為を、
「みんながそうしているから」と、疑問を抱かずに受け入れてしまう傾向がある気がしてならない。