これで何人の働く人の首を切るんだろう…
日産自動車:追浜工場 生産ライン1本を来月停止へ
毎日新聞 2012年06月21日 10時42分(最終更新 06月21日 11時22分)
日産自動車は21日、主力生産拠点の追浜工場(神奈川県横須賀市)で、2本ある生産ラインのうち1本を7月に停止すると明らかにした。円高による輸出採算の悪化や国内市場の低迷を受けて、海外への生産シフトをいっそう進める。
追浜工場は「ノート」や「キューブ」など小型車を中心に年間生産能力は43万台。これにより、同社の国内生産能力は年115万台と、現状より約15%(約20万台)減る。
同社が国内の生産能力を減らすのは、01年に村山工場(東京都武蔵村山市)を閉鎖して以来11年ぶり。停止するラインは廃棄せず、将来的に生産を再開する可能性もあると同社は説明している。
国内の自動車大手では、トヨタ自動車も国内生産能力を現状より40万台少ない320万台まで段階的に減らす計画。【高橋慶浩】
日産:ゴーン社長の役員報酬9億8700万円
毎日新聞 2012年06月26日 11時24分(最終更新 06月26日 11時42分)
日産自動車のカルロス・ゴーン社長の12年3月期の役員報酬が約9億8700万円に上ることが26日、分かった。業績改善に伴い、前期より500万円上積みしており、3年連続で国内上場企業の最高額になりそうだ。
日産が同日、横浜市内で開いた株主総会で、株主の質問に答えてゴーン氏が公表した。ゴーン氏は「日産と同規模の売上高の企業や、グローバルな人材を雇う企業と比較して決めた」と述べた。
日産の取締役9人の役員報酬は総額18億8000万円。日産は中国や北米で販売を伸ばし、12年3月期の連結最終(当期)利益が前期比約7%増の3414億円となり、トヨタ自動車の2835億円を上回った。トヨタの豊田章男社長の同期の報酬は1億3600万円だった。【高橋慶浩】
例によって土曜日に届く 週刊金曜日
6月22日号は
光の当たらない現地公務員 被災地を支える人を支える 香山リカ×辛淑玉
東日本大震災後、被災地に務める公務員の心身が疲弊している。自らも被災者でありながら自分のことを後回しにして働いているにもかかわらず、感謝もされないばかりか攻撃の的になっているからだ。被災地で「心のケア」のボランティアを続ける二人が、すさんだ人々の心と生活を支える人を支えていく重要性について語る。
死ぬまで頑張るのが公務員だという。
でも、犠牲を強いたヤツが 自ら犠牲を払うのを 見たことがない-辛
被災地では復興が進まず やり場のない不安や怒りがでてきて 言い返せない職員を叩いてしまう-香山
おととい、妻と一緒に映画を観に行きました。新しい電気屋さんがオープンしたせいか、八丁堀周辺は人も多く食べるお店も待っている人が並んでいる…開店初日は白島の女学院高校のところまで列が並んだそうです。いつも読ませていただいている広島の女性医師のブログでも「500円の扇風機を買った」なんて書いておられたから…。
タクシーの運転手さんに「中の棚のシネツィンへ」と言ったら「懐かしい」と言われました。最近では新天地「中の棚」という人はほとんどいないそうです。
![]() |
1. | 「中の棚」の誕生は | ![]() |
・
|
安土桃山時代の 天正17年(1589年)4月に毛利輝元公により広島城が着工しました。この年に魚市場として誕生し、通称「うおのたな(店・棚)」と云われていました。西側(現在の相生通り立町電停から本通に向かう南北の道路で新生銀行やグランドパーキング21等が並んでいる通り)には、八百屋・うどんや等々食材の店が多くありました。この通りを「たて町」(立町・竪町)と呼んでいました。 | ||
![]() |
|||
・
|
広島城着工時に、築城資材運搬など平時には水運として、戦時には城堀のため“中の棚”の東側(現在の金座街から並木通り)に平田屋川(堀川)が切り開かれました。また現在の鯉城通りにも同様の目的で西堂川が作られました。因みに相生通りは外堀でした。 | ||
![]() |
|||
・
|
広島城築城と平行して城下町の建設が進められ京の町に似せた町割を実施したようです。この城下町建設に参画した出雲出身の平田屋惣右衛門の名をとって、平田屋川や平田屋町(現在の本通2丁目付近)が付けられましたが、毛利時代の町名はほとんど明らかではありません。 | ||
![]() |
|||
・
|
福島正則時代には、中の棚の地名は「東魚屋町」その西側の南北の通りを「たて(立・竪)」その西側(国際ホテル付近)を「東研屋町」その西を「研屋町」そして「紙屋町と続きます。 福島時代は商業重視政策で武家屋敷を八丁堀に縮小し町屋敷を拡大しています。「八丁堀」は城東の外堀の長さが八丁(約880m)あったことから八丁堀と呼ばれました。現在の相生通りにあった外堀の長さは、約140mくらいで3ケ所に門がありました。 |
![]() |
2. | 「中の棚」の名の由来は | ![]() |
・
|
正式な地名は「東魚屋町」と定め、通称「うおのたな(店・棚)」と呼ばれていましたが、元和5年(1619年)の浅野長晟公入城の時に西魚屋町(現在の袋町付近)と京橋町(現在の南区)に魚市場が設けられ、3ケ所の魚市場のまん中に位置していることから“うおの店”転じてまん中の店と云う意味で「中の(店・棚)」 と呼ばれるようになりました。 | ||
![]() |
|||
・
|
店(たな)も棚(たな)もいづれも店(みせ)の意味ですが、「中の棚」と漢字で表現されたのは、平田屋川に架けた橋が南から富士見橋・竹屋橋・平田屋橋(現在のパルコ付近)・「中の棚橋」と名付けられたことから『中の棚』となりました。 | ||
![]() |
|||
・
|
江戸時代の中の棚には、一面に幅30cm・長さ90cmの赤御影石が敷き詰められ、石と石の間に水が溜まり月が映り独特の情緒があったようです。 |
『似島はドイツ』の中でも手話地名などを取り上げています。およみください。