今日は雨ふりでしたが、目のほうはあんまり痒くありませんでした。
明日は父の日と言うことで、2日に分けて父の日観連のネタです。
介護職として父の日の前に知ってほしいと思い、書くことにしました。
私は7年前の6月に出戻り、4年前の10月にヘルパー2級として介護施設で働き、この春にめでたく介護福祉士となりました。
この仕事を始めてから「親がいつ倒れてもおかしくない」という覚悟だけはするようになりました。不安定な派遣社員の仕事を続けていたらそこまで考えることはできなかったかも。
昨夏に桑田さんが初期の食道がんだという報道で大さわぎになっていたときも自分の父親が初期の腎臓がんを克服したとはいえどもパニック状態でした。
うちの父の場合、経営していた会社が絶好調の時で、近くに岐阜大学の医学部の教授をしていた先生が「白い巨塔」的な環境が嫌で、個人医院を開き、父と仲良くなるついでに診ていただいたときにおなかに発疹があるので詳しく検査をしたら腎臓にがんが出来ていたんです。
当時私は23歳で、弟は大学3年生を留年していました。当時司町にあった大学病院で手術を受けました。術後も経過が良く、クリスマス以後に退院と言う話も出ていましたが、クリスマス以前に退院したもの、同時期に末期の胃がんであることを告白した逸見政孝さんがお亡くなりになるという悲しいニュースが流れました。
その後が大変で、抗がん剤の副作用で苦しみ、湯治をしたこともありました。親子関係も険悪で、分かりあうのに15年はかかりました。
それよりこわいのは父親が脳梗塞で倒れたり、認知症になった時です。
ニチイでヘルパー2級の勉強を始めた時のスクーリングで「介護保険は申請するのに1カ月かかる」とこんこんと言われました。これを知らない人があまりにも多すぎて…。
あとは借りれるものは借りた方がいいと思います。
一番言いたいことは介護を「長男の嫁がやって当たり前」の考えはジコチューと言うことです。私自身、30年前に母方の祖母が倒れた時に母の実家のある新潟の家に居候した経験があるからです。大きな声では言えませんが、学校になじめなかった経験があるので楽しい経験であった半面、辛い現実を見ました。
当時仲良しのいとこが新潟を離れて東京で働いていましたが、年に数回しか帰れません。祖母は7年後に亡くなりましたが、家族にとっては長い日々でした。その間おじが祖母と介護をする叔母の板挟みになって体調を崩し、胃潰瘍で1カ月入院しました。
そのおじも耳が遠くなり、おばも足の手術をしていつ介護を受けてもおかしくない状態です。いとこも西新井にマンションを買いましたが、仕事が忙しいので戻れません。(いまだに連絡来ず)
自分の親が倒れた時が一番怖い。冷静にはなれないな。
最後に一言・某アンケートで三村が「理想の父親」のベストテンにランクインされていたが、家族でモヤモヤ探しをするのは…。大竹がお父さんと言うのは勘弁してほしい。神経質すぎだもん。