高砂神社の境内に建立されていた銅像の主は『工楽松右衛門(くらくまつえもん)』。当時は誰かな?と思いはしたものの、特に調べてみようとも思わず十年が経過。それがある場所への訪問をきっかけに、突然としてあやふやな記憶に猛アタックがかけられたのです。
2018年12月14日、この日私たちはマンホールカード9弾の配布が決まった高砂市にやって来ました。配布場所は高砂市高砂町今津町にある「工楽松右衛門旧宅」。
館内の案内によれば『工楽松右衛門(くらくまつえもん)』とは、江戸時代に海運業や港湾改修で活躍した人物で、「松右衛門帆」で大きく名を遺した人物云々・・・当時はカード収集が主目的だった為、初見で見聞きする知識も上滑り(^^;)
館内の案内で、2018年5月に工楽松右衛門旧宅と南堀川の遺構が「~荒波をこえた男たちの夢が紡いだ異空間~」として日本遺産に認定されたとあり、俄かに興味が(笑)。それでもこのスタンプの『工楽松右衛門』と、10年以上前に見た銅像が結びつく事はありませんでした。
館内は無料で見学が可能との事、これだけの建物を眺めただけで回れ右ができるほどコレクター根性も無かったのでしょう。次の配布地へ向かう時間を気にしつつも、さっそく見学をさせて頂くことに。
工楽松右衛門旧宅の土地・建物が工楽家から高砂市に寄贈されたのは2016年1月の事。しかし、200年近い経年による傷みは相当なものであり、その為、当初の建築様式に復元するには1年4か月の歳月を要したといいます。
軒下は火事から家を守るために、波打ち仕上げの白漆喰で塗り固められ、また建物の周囲には、水に長年浸かっていた古舟の舟板が使われ、商家建築としては珍しい細工。むろん、これにも防火の意味が込められています。
建物の見学で最も印象に残ったのが、通り庭の吹き抜けの小屋組・・見上げた瞬間に感じる圧倒的な存在感は、こんな稚拙な写真ではとても伝えきれるものではありません。差し込む光の美しさに思わず感動を覚えます。
変わった形の石灯籠が置かれた庭、沢山の敷石。ここには何があったのだろう? もう少し時を置いて訪ねれば、また違った景色に出会えるかもしれない。
工楽松右衛門の功績を語るうえで欠かす事のできない一つが、播州特産の太い木綿糸を用いて作り上げた、厚く巨大な平織りの帆布「松右衛門帆」。
これまでの木綿布を二枚三枚と縫い合わせた帆に比べ、彼が開発した新型帆布は耐用年数も、航行の効率化も比較にならない程に優れており、瞬く間に全国に普及することになったと言います。この「松右衛門帆」によって、北前船をはじめとする大型和船の航海術は飛躍的に向上したと言います。
もう一つの日本遺産である「高砂南堀川の港遺構(雁木と護岸石垣)」も着々と復元工事が進められていました。
「江戸時代~近代 南堀川は、江戸時代に開削された人工運河で、港町高砂の物流の中心地でした。堀川沿いには蔵が建ちならび、多くの人々や物資でにぎわっていました。 平成28・29年の発掘調査で、舟から荷物を揚げ降ろしした、幅4m・奥行3.3mの雁木(石階段)や、南堀川西岸の石垣10mが確認されたため、一部を復元し展示しています。」現地看板より
思いがけなくも素晴らしい時間を過ごすことができた私たち。本当はまだまだ見足りないのですが、一応、事情が事情で(笑)、後ろ髪引かれつつ「工楽松右衛門旧宅」を後にしました。
それから数年後(^^;)、当時のパンフレットを見直していた時、ふと・・どこかで見覚えのある写真の存在に気が付いたのです。
体の向きは逆ですが、確かにこの銅像に見覚えが・・高砂のどこかで確かに見た・・この人物!それが高砂神社に建立されていた銅像と同じものだと気が付くのにそれほど時間はかかりませんでした。
『工楽松右衛門(くらくまつえもん)』寛保3年(1743)、播州高砂の漁師の長男として生まれ、幼少の頃から家業である漁業に従事。この頃から創意工夫が得意であったと伝えらています。15歳の頃に兵庫に出て回船問屋「御影屋」のもとで船乗りになり、その後、『北風荘右衛門』の斡旋で佐比絵町に店を構え、船持ち船頭として独立。 船乗りとして一人前になった松右衛門は、帆布改良の研究に着手し、やがて播州の特産である木綿を使った厚手で大幅な新型帆布の織り上げに成功。寛政2年(1790)、江戸幕府より択捉島に船着場を建設することを命じられ、翌夏に竣工。享和2年(1802)、 幕府から功績を賞され、「工楽」の姓を与えられ、名字帯刀を許される身分となります。
「工楽」とは「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」
訪問日:2018年12月14日 (銅像のみ2010年5月8日)
確かに身分の固定は刷新、改革といった活力の阻害要因には違いないのですが、逆に行政における特定の分野を世襲することでその道のプロフェッショナルを育成できるというメリットもあります。
特に現場を預かる中下級の役人たちの多くは現場責任者としてはきわめて優秀で、彼らの多くは今風に言えばいわゆる「オタク」的であり立身出世よりも自分の道を究めることに生きがいを感じる連中が多かった。
くわえて江戸時代においては玉川用水の玉川兄弟や伊能忠敬をはじめ優秀な人材の登用に積極的で、かつその功に報いるというシステムが確立されていました。
ちょっと前までよく言われた「民間活力の導入」が非常にうまく機能していたということですね。
ドラマの水戸黄門に登場するような悪代官ばかりだったら徳川幕府は260年も持ちませんよ!
目を通してくださりコメントまで、有難うございました。
>「工楽」とは「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」
良い言葉ですね。
誇りに思える名前です。
きっとよほど熱意にあふれた従事ぶりだったのでしょうね。
人として、そう生きたいものです。
どうぞ思い出に囲まれ、
明日もつつがない日を過ごされますように。😊
いろんな場所を旅して、色々な史跡を見て、
ああ、本当にそうだと感じます。
特定の分野を世襲することでその道のプロフェッショナルを育成できる
これも「確かに」と頷けます。
現代の日本に残されている「道」と名のつくもの
それは長い年月、その事にだけ邁進してきた人たちが生み出してきたもの
一朝一夕で生み出せるものじゃありません。
最近はやたらと日本固有の文化は
自分の国が由来だと言いたがる民族や
それに迎合するおバカな政治家が増えてきましたが
ホント、情けないの一語に尽きます。
水戸黄門に登場するような悪代官(^^;)
印籠の御紋一つでオタオタする小心者ですけどね(笑)
この部分の下りに、実はとても感動しました。
当寺の身分階級の中で、姓を頂くという事は、名誉を頂く事に外ならず
名誉は命に代えても守りたいもの。
こういう人の事をもっと日本の歴史は伝えていくべきだと思うのです
自分の国に対し誇りを持つ事が、
まるで悪い事みたいに叫ぶ輩など、
徹底的に無視すればいいんですよ!