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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

伊勢神宮:内宮参拝~其の一 in 三重県伊勢市

2021年04月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

神路(かみじ)山、島路(しまじ)山の麓、五十鈴川のほとりに鎮座される「皇大神宮」。御祭神は『天照坐皇大御神 (あまてらしますすめおおみかみ)』。三種の神器の1つ・八咫鏡を神体とし、日本人の大御祖神とされます。相殿神として左方に『天手力男神 (あめのたぢからおのかみ)』、弓を神体とします。右方に『万幡豊秋津姫命 (よろづはたとよあきつひめのみこと)』、剣を神体とします。

神域の西側を流れる五十鈴川は別名「御裳濯(みもすそ)川」と呼ばれており、神代の昔、倭姫命が御裳のすそを濯がれたという伝説が、その名の由来と伝えられています。

一の鳥居を潜り五十鈴川に架かる宇治橋をわたれば、そこはまごう事なき神の領域。真っ直ぐに正面を向けば、知らずに背筋が伸びるのを感じます。

「『日本書紀』によれば、天照大神は宮中に祀られていたが、崇神天皇6年、笠縫邑に移し豊鍬入姫命に祀らせた。垂仁天皇25年、倭姫命が後を継ぎ、御杖代として天照大御神を祀るための土地を求めて各地を巡った。その途中に一時的に鎮座した場所は元伊勢と呼ばれる。垂仁天皇26年、伊勢国にたどり着いたとき、「この国に留まりたい」という天照大御神の神託があり、倭姫命は五十鈴川上流の現在地に祠を建てて祀り、磯宮と称したのが皇大神宮の始まりという。」Wikipediaより

内宮の境内には、神の使いとして神鶏が放し飼いにされており、自由に境内の一隅で寛ぐ姿が見られます。赤い鶏冠と白い尾羽がとても綺麗で、思わず触れてみたくなりますが、もちろんそんな畏れ多いこと・・・😅

神域内の二の鳥居を潜ると、清浄さは更にまし呼吸のたびごとに涼やかな空気で肺が満たされる感覚。これはもう理屈で語るものでは有りません

五十鈴川参道右手のゆるやかな斜面を下りていくと、石畳を敷き詰めた五十鈴川岸の御手洗場にでます。早朝の川の水は冷たく、それゆえに一層、心の奥底から清められた心持になるのです。

銅板葺・入母屋造の美しい建物は、「神楽殿」「御饌(みけ)殿」。神宮の御祈祷は、「御饌」と「大々神楽」の2種類に分かれているのだそうです。

「四至神」は内宮神域の守り神、四至とは神域の四方を意味します。社殿や御垣はなく、石畳の上に祀られます。

2013年の遷宮に向けて準備された「式年遷宮 御敷地」、もちろん、囲いの中は見えません。

「御稲御倉」には、三節祭でお供えされる神田で収穫されたお米が納められています。

正宮御垣の外、神明造の高床式の建物は「外幣殿(げへいでん)」。内には「古神宝類」と呼ばれる、神様の生活に必要な品々が収められているそうです。

「別宮:荒祭宮」御祭神は『天照坐皇大御神荒御魂』。神は常に「和御魂(にぎみたま)」「荒御魂(あらみたま)」の二面性をもち、それゆえに人々は神を畏れ敬ってきました。
こう言う話は、書き出すと際限なく長くなりますし、私自身も漠然とした知識しか持ちえません。少しでも興味をもたれてご自身で調べられると、更に興味深い話に行き当たるでしょう。

「別宮:風日祈宮」、御祭神は風雨を司る『級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)』。元寇の際に神風を吹かせた神としても知られます。

御手洗場のすぐ近くに鎮座される「瀧祭神」。 社殿を持たない神社で、五十鈴川の守り神として古くから大切に祀られています。

参拝日:2010年4月4日。

ちなみに・・・・『天照大神』の御神名を、「てんてるだいじん」と言った人物が、勉強不足を恥じもせず、「英語表記にしてくれないからだ」と、仰ったそうで😱 自分が嫁ぐ先の先祖神の御名さえ読めない、あまつさえ開き直る・・それってもの凄く恥ずかしい事だと思いますが・・・

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庄野宿資料館 in 三重県鈴鹿市

2018年03月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

鈴鹿市庄野町「庄野宿資料館(旧小林家)」

「庄野宿に残る膨大な宿場関係資料の活用と旧小林家(市指定文化財)の保存を進めるため、主屋の一部を創建当時の姿に復元して、平成10年に開館しました。 庄野宿は東海道五十三次の四十五番目の宿として発展し、また歌川広重が描く「東海道五十三次」の風景版画の中の傑作といわれる「庄野の白雨」でもよく知られています。館内には、庄野宿の本陣・脇本陣文書、宿駅関係資料をはじめ、日本画壇で活躍された故小林彦三郎氏の絵画や文書の他、地域に残る民具、農具、日用品などを展示しています。」案内より

館内展示の古瓦・・随分と変わった形だけど何処に使われていたのだろう?。

定番の鬼瓦

柔らかな自然光が差し込む座敷。こうしてみ有ると、昔の家の造りは、建具を外すだけで何十畳もの大広間に変身できたというのがよくわかる。

庭から見る縁先

御隠居さん気分で庭を愛でながら、猫をかたわらにお茶を飲んでみたい(笑)

数分だけの街歩き(^^;)で見かけた、鈴鹿市庄野町に門を構える「妙法禅寺」の屋根の留め蓋。

飾り瓦の獅子二対

訪問日:2011年4月10日

 

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川越電力館テラ46 in 三重県川越町

2018年03月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

川越町大字亀崎新田字朝明。中部電力の設備として、1989年に1号機が運転を開始した川越火力発電所は、川越町が「活力ある豊かな町づくり」の一環として、海岸部に170万m2を埋め立てた臨海工業団地の一角に位置しています。川越火力発電所のPR展示施設として設置された「川越電力館テラ46」。「子供が喜ぶ施設」のフレーズに誘われて(笑)、良いお年頃の二人、雨の中をやってきました。

学校行事などで訪れるお子様たちも多いとかで、施設内には広い駐車場もあります。

1996年7月に開館した「川越電力館テラ46」。施設のテーマは「人と地球の共生と未来」。 名称は、地球誕生からの46億年を表す数字と、ラテン語で地球を意味する「テラ」の組み合わせ。目の前に聳える44万分の1の地球が私たちを手招きしています。

こんな雨の日ですが、人気の有る施設らしく私たち以外にも数組の入館者がいます。 もっとも皆さん小さい子供さん連れで、大人だけと言うのはどうやら私たちだけ・・・まぁ、この際それは置いといて(笑) 館内へのアプローチ「スペースロード」は、まるで宇宙船に乗り込むワンシーンのよう。

川越電力館テラ46のマスコットキャラクター『エナーズ』君のおでむかえ。

「テラカードシステム」で、宇宙旅行のパスポートとなる「テラカード」を作成。写真付きのカードを手に、さぁ、宇宙の旅へ。なんとご亭主殿、船長に任命されました(笑)

「ワンダーマシーン」に乗り込んで地球46億年の旅へ。15分弱の映像が見せてくれる地球の様々な表情に、感動したり驚いたり。

宇宙の旅を終えたら、エネルギーデータベース「テラKOYA」でテラ検定に挑戦。

「プリンセスKAGUYAアドベンチャーランド」では、クイズとゲームで地球に不時着してしまったかぐや姫の子孫を救い出します。

ご亭主殿、今度は5階にあるプレイランドで環境についてお勉強。

最上階「川越展望サロン」から見下ろす地球のてっぺん。

上階から見下ろす「伊勢湾ジオランド」。お天気の良い日は子供たちの歓声で溢れるんだろうな。

生憎の雨で最上階からの展望は今ひとつでしたが、それなりに・・と言うか十二分に楽しめた「川越電力館テラ46」。これで入場は無料!だなんて・・太っ腹すぎます中部電力(笑)

訪問日:2017年3月26日

 
 
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多度大社~Ⅳ~ in 三重県桑名市多度町

2018年03月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

「歴代の桑名藩主により、手厚い保護のもと今日まで連綿と継承されてきた「多度大社」の御例祭。なかでも「上げ馬神事」は馬の状況を見て、その年の豊凶を占ったといいます。上げ馬は本来は神に良馬を献ずるものでしたが、後世変化して土壁を駆け上がる形になりました。信仰的な競技で、氏子各村から神馬を出し、競わせて急峻な坂を上がらせるのです。騎手を勤めるのは各字の少年。人馬一体となって約2メートルの土壁を駆け上がり、その数や順番によって、その年の豊凶を占首尾よく上がることが豊作の印とされてきました。」

画像左手に見える建物は「多度祭御殿」と呼ばれるもので、歴代の桑名藩主が上げ馬神事を拝観された場所です。

坂の手前に一際高く聳える「御神木・楠」。上げ馬神事の前には、空馬による「楠周り」と呼ばれる仕儀が行なわれます。

境内左手に築かれた「上げ坂」。多度祭の上げ坂は5月2日に新たに築かれ、5月4日に上げ坂が成功しやすいように築きなおされます。

もう少し近づいてみると、坂の上に約二メートルほどの土壁がたちはだかっているのが分ります、上げ馬は、この坂を駆け上るのですが・・・・最近では動物愛護の観点からの苦言などもあると耳にします。私には、そのことに対して何かを言う立場も権利もなく、ゆえに賛否のいずれも選べません。

下から見上げる「上げ坂」よりも、上から見下ろす「上げ坂」の方に、より足がすくみます。馬も、騎手もどんなに決死の思いでこの坂に挑むのか。色々と異論が有る事も承知で・・これは神と人が一体になって挑む神事なのだと・・結ぶことしかできません。

境内を後にして右に進むと神橋があり、さらにその先に朱塗りの鳥居が見えてきます。

「多度稲荷神社」。案内には「元治元年(1864)、多度の庄屋が伏見稲荷大社に参拝し、七日七夜の行を修め、御分霊を拝戴して現在のところにお祀りいたしました」と記されています。ちなみに多度大社とは無縁の神社でした(^^;)

稲荷社の左手奥に門を構える真言宗寺院「多度山:法雲寺」。伊勢西国三十三観音霊場第三十三番札所。『千手観音菩薩』を本尊とし「多度観音」と親しまれます。

縁起「天平宝宇7年(763)多度大社の東、鷲の倉の地に満願禅師が道場を開き、丈六の仏像を安置して礼拝、修行をしていました。ある夜、多度大神の神託を受けて、堂塔の建立を発願しこの地に堂を建立。神像を祀って多度大菩薩と号していました。」歴史を紐解き詳細にとなれば長くなりすぎる為、あとは概略で。

「その後信長軍の軍勢により、多度大社共々堂塔の全てを焼失。江戸時代に入り本多忠勝による多度神社復興を受け、承応2年(1653)住僧良心法師による大修理の後、多度大社の別当「宝雲寺」を再興。明治の神仏分離令を受け法雲寺は廃寺となり、御手洗川、落葉川の畔に観音堂を建て、本尊十一面観世音と千手観世音を併せて祀っていたが集中豪雨により観音堂は流失。翌年、小堂を再建。昭和38年に観音堂を改築、今に至っている。」

南北朝時代前後の作と伝えられる「十一面観音菩薩立像(桑名市指定文化財)」。

御本尊「千手観世音菩薩立像(桑名市指定文化財)

左の碑は神仏習合を広めたとされる『満願禅師碑』。昭和五年(1930)八月の碑陰。もう一つは『華山翁・瘞遺物碑』「享和癸亥(1803年)」の碑陰が残されています。

観音堂石段の傍らに建立された「鱗魚供養之碑」。文字通り魚類の供養の為に建てられた碑です。現世の万物全てを供養する風習は、日本独自の生命観・自然観を示すものとして心嬉しく感じます。

「平野翁頌德碑」。昭和七年(1932)三月の建立。

「多度観音」を辞し道沿いに暫く進むと「宮川 清めの池」と記された案内板が見えてきました。

「清らかな玉川の伏流水を利用して、宝暦年間には既にこの宮川の地に存在し、古くは垢離・掻池(みそぎ池)と称し、多度大社の参拝者は、ここで手を洗い、口をすすぎ身を清めて一の鳥居より神域に入ったと言われています。現在でも五月の多度大社の祭礼には、この池の水で御旅所行列の途中、各御厨(奉仕地区)の祭馬にそれぞれ水を飼い足を清める習わしがあります。」多度大社社務所案内より

もと来た道を引き返して駐車場へ、「丸繁」さんでご亭主殿リクエストの「クリーム大福」を購入したら、二度に渡った多度大社、および周辺社寺の参拝は終了です。

立ち去り際に見つけた「道中伊勢音頭」の幟。「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」。多度の御祭神『天津彦根命』が『天照大神』の御子神である事、また、多度大社の立地が伊勢参詣の為の街道沿いにある事から、このように詠われていたといいます。

参拝日:2011年4月9日&2017年3月28日
 
 
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多度大社~Ⅲ~ in 三重県桑名市多度町

2018年03月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

「多度大社」三日目は、大鳥居から真っ直ぐに続く参道。その途次途次に出会う様々な歴史を刻む石造物たち。

スタートは明和六年(1769)十月十二日、『恵方庵富無三』建立の「落葉塚」芭蕉句碑。貞享元年(1684)十月【野ざらし紀行】の途次、同門の『本因』と桑名へ向かう時に多度権現で詠まれたもの。

【 宮人よ 我名を散らせ 落葉川 】(宮人よ、川が落葉を掃き流すように、私の名が見えるこの落書きも、掃き流してくれないか)

落葉塚と背中合わせにある白砂の神域。

高知県出身の俳人『右城 暮石(うしろ ぼせき )』の句碑【 上げ馬を あげしどよめき 多度祭 】

【 曉(あかつき)の ほしやこほれて うめの華  以年七十五 碌々翁 】芭蕉の流れをくむ一派の宗匠を務めた「棚橋碌々翁」と想像しますが確実ではありません。

ざんばら髪を振り乱し、片足を高く上げて駆ける男の線画が刻まれた『玉護』の狂歌碑。【  ミなかみの 流の末カノ 民なれは やまと心の 濁るへしかハ 】

狂歌師『玉護』の人物像、色々調べてみましたが不明。

多度神社に山林42町9反(東京ドーム9個分)を寄付した『伊藤紀兵衛』の碑。 明治・大正・昭和初期の桑名を代表する資産家で、納めた所得税は当時の県下では最高額だった人物です。

手前にあるのは「天明二年洪水始末碑」。天明3年の御手伝普請のことを記した石碑で、裏面には、普請を担当した幕府方など、各藩の武士の姓名が刻まれています。

天明二年(1782)と言えば、日本中が冷害、長雨等の異常天候に見舞われ、多くの餓死者を出した年代。いわゆる「天明の大飢饉」と呼ばれた一大事が起こり始めた頃です。残念ながら碑に刻まれた漢文を読み解く才も気力もない為、藩名 日付、地名など、文字に起こされた文面を見ても断片的にしか読み取れません

参拝向きとは言えませんが、雨に触れた境内は殊の外美しく、足元に咲く花たちは皆一様に生き生きと輝いています。

すでに巌と化しつつある「さざれ石」。苔むしたこの石が過ごした年月は一体どれほどだったのか・・

「筆塚」は、使い古した筆や筆記具を埋め,その供養のために築いた塚の事。 賽銭箱の傍らには、そうした筆を収納するカゴが置かれ、参拝者によって沢山の筆が納められています。

幾多の燈籠の中に隠れるように奉納された「織部灯籠」。この面からは経文のような文字が見えるのみです。

「神宮」「橿原」「皇居」と刻まれた方位盤。

多度大社境内入り口右手に檜皮葺の建物。入り口に注連縄がある事を見れば、おそらくは神職の方に関わる建物と思われますが、詳細は不明です。

多度大社、明日は上げ馬神事の説明を経て境外へと移動します。

参拝日:2011年4月9日&2017年3月28日

 

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多度大社~Ⅱ~ in 三重県桑名市多度町

2018年03月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

昨日に続いての多度大社、今日は境内にあまた鎮座される末社、その他の建造物を紹介をします。

境内正面に「末社:鉾立(ほこたて) 社」。御祭神 は本宮の御子神とされる『天久之比命(あめのくしひのみこと)』。本宮の御子神ながら、何故か両宮からはかなり離れた位置で境内に向かって鎮座されています。鳥居は、神と人との結界を守るもの。この神もそうした役目を担っているのかもしれません。

一の鳥居を潜ってすぐ正面に「摂社:新宮(しんぐう)社」。 御祭神 『天津彦根命幸魂 (あまつひこねのみことさきみたま)・ 天目一箇命幸魂 (あめのまひとつのみことさきみたま)』。江戸時代になり、多度大社が復興される際、両宮の御祭神は美濃国赤坂山より、まずこの社に還御になられたと伝えられます。

石段参道を登り、境内右手に鎮座される末社「藤波社」。御祭神『建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと) ・大穴牟遅命(おおあなむちのみこと) ・少彦名命(すくなひこなのみこと)』

境内より出迎えてくれる、神馬『錦山』号。100円で人参を購入できるのですが、参拝者が近づくと顔を覗かせ、可愛い仕草でおねだりしてくれます。この可愛さの破壊力と来たら・・大概の人がハートを射抜かれます(笑)

神馬『錦山』号の厩舎の右隣にあるお堂のような建物。公式HPにも記載が無く。無いなら無いで気になるのが人情というもの(-"-)。であちこちさ迷ってみましたが、結局分かりませんでした(笑)

「末社:雨宮(あめのみや) 八幡社」。御祭神は流水を分配する『天之水分神(あめのみくまりのかみ)・ 國之水分神(くにのみくまりのかみ)』。更に『 品陀別命(ほんだわけのみこと)』を配します。

二の鳥居を潜ってすぐの右手に「神楽殿」。境内通路側の入り口が社務所になっており、御朱印はこちらで頂けます。

更に参道を進むと右手に「白馬舎」が見えてきます。ここには古くから伝わる白馬伝説に因んだ白馬が納められています。また馬は非常に歯の丈夫な動物と言うことで、これにあやかった「歯ぎしり除けの豆」が頒布されています。

参道左手に鎮座される「末社:皇子社(おうじしゃ)」。御祭神は天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた五皇子三女神の、四皇子二女神。『正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)・天之菩卑能命(あめのほひのみこと)・活津彦根命(いくつひこねのみこと)・熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)・多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)・多岐津比賣命(たぎつひめのみこと)・』。早口言葉にしたら、絶対に舌を噛む事・・受け合います。

於葺門近くに鎮座される「招魂社」。昭和二十七年サンフランシスコ条約発効後に創立。西南の役以降の国内外の出征、戦歿された『桑名郡:市・員弁郡:市・四日市市・三重郡・岐阜県下出身の御英霊』を奉斎します。

朱塗りの鮮やかな社は「摂社:美御前社(うつくしごぜんしゃ)」。御祭神は『市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)』

古来より、耳・鼻・口の病気や女性特有の病に御加護を下さるとの信仰があるとされます。御前に穴のあいた石をお供えし病気の快癒を願うが良しとされ、いくつもの穴開き石が奉献されています。

大小、色形も様々な穴あき石・・・・探せばあるものなんですね・・

明日は多度祭神事の事・境内に奉納される句碑・石碑などを紹介します。

参拝日:2011年4月9日&2017年3月28日

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御神名一口メモ

『天之水分神(あめのみくまりのかみ)』。「速秋津日子命」と「速秋津比売命」の間に生まれた御子神。分水嶺に祀られ、天から降る水、また河の水を司る神。

『國之水分神(くにのみくまりのかみ)』。同上。大地から湧きだす水、また海の水を司る神。

「幸魂(さきみたま)」は、「一霊四魂(いちれいしこん)」に言う「荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂・奇魂(くしみたま)」の一つ。「幸いをもたらす恵みの魂」と捉えてください。

 
 
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多度大社~Ⅰ~ in 三重県桑名市多度町

2018年03月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

三重県桑名市多度町多度に鎮座される「伊勢国二宮」「式内社:多度大社」

【古来より標高403メートルの多度山が、神体山として信仰され、古代祭祀を物語る磐座が山の中腹に存する。社伝によると五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が創建されたと伝えられる。 『延喜式』巻九神名帳の桑名郡十五座のうち「多度神社 名神大」とみえ、いわゆる延喜名神大社である。後一条天皇の御代に、東海道六社の一社にかぞえられ、天皇即位後の御一代一度の奉幣に預る神社として大神宝使が派遣され、宣命・幣帛・神宝が奉られ朝廷の厚い崇敬を受けた。】略記より

2011年は雨の中、仲良しのJさんが一緒の三人で。2017年は春の日差しの下で御朱印を頂くべく二人で参拝。二つの季節を織り交ぜながらの多度大社です。

古来より神が在わします山と信じられてきた「多度山」。その小高い丘の上には「天翔る白馬」が人々の折節の喜怒哀楽を静かに見つめ、その願いを神に届ける役を担っていたと云います。

ご神馬「錦山号」。上品に人参を食む姿も、流し目をで更なる人参を催促するお茶目な姿も、どちらも愛らしい多度大社のアイドル的存在です(*^^*)

多度大社の紹介、最初のページはご本殿の神域近く「二の鳥居」から。

二の鳥居正面にみえてくる「於葺門(おぶきもん)」。その先は多度大社境内でも最も神秘的な場所とされています。門の奥にトラックが見えていても、やはり空気の色が違って感じられるのは流石と言うべきか(*^^*)。

門をくぐった瞬間、背筋がピンと伸びるような、そこから先の空気が明らかに異なったと感じる不思議で神秘的な空間。雨に濡れた神橋。人気の少ない神域に満ちる研ぎ澄まされた清浄感。深呼吸をするたびに満ちてくる清々しさに、しばし体の痛みを忘れて立ち尽くす私。手を取り寄り添う人。

御神体山を背に、春の日差しを浴びて鎮座される「御本宮」

御祭神は『天津彦根命(あまつひこねのみこと)』、相殿に『面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)』

御本宮の斜め上方には、注連縄で守られた巨大な「磐座(いわくら)」が鎮座されています。背後の多度山を神体山とし、山中に磐座が多く残されているという由緒の言葉を改めて思い浮かべる荘厳な景色。

2011年・・橋の袂から拝見した御本宮、この時張り巡らされていた白い覆いは何らかの修復の為と小耳にはさみましたが、それ以上の事はわかりません。

御本宮左手に鎮座される「末社:神明社」。御祭神『天照大御神』

御本宮と向かい合う位置に鎮座される「別宮  一目連神社」。 御祭神『天目一箇神(あめのまひとつのみこと)』

御祭神は『天津彦根命』の御子神で、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖であるとも伝えられます。 日本神話の中では『天照大神』の岩戸隠れの際に「刀斧(とうふ)・鉄鐸」を造られた神と記されます。

「別宮」の袂、注連縄の結界に護られて鎮座する「磐座(いわくら)」。足を投げ出して座る巨大な獣が、何かを見つけてぬっと顔を突き出した・・そんな風に見えます。

山土を抉るように絶え間なく降りしきる雨は、世俗の不浄を洗い清め、やがて清流 落葉川の流れとなって外界に届けられてゆきます。

春の日差しを写す「御手洗所(みたらしじょ)」の水辺。

明日はあまた祀られる境内社の紹介です。

参拝日:2011年4月9日&2017年3月28日

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御神名一口メモ

『天津彦根命(あまつひこねのみこと)』、天照皇大御神と建速須佐之男命の誓約によって生まれた五柱の男神の内の一柱。伊勢国桑名郡の豪族『桑名首(くわなのおびと)』の祖神ともされる。

『面足尊(おもだるのみこと) 』『惶根尊(かしこねのみこと)』、共に天地開闢の際にお生まれになられた神世七代の第六代目の神であり、『面足尊』は男神、『惶根尊』は女神と見なされる。

 
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桑名市内~あちこちウォッチ in 三重県桑名市

2018年03月01日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

桑名市北寺町に門を構える真宗大谷派寺院「桑名別院:本統寺」『阿弥陀如来』を本尊とします。

「桑名御坊」とも称し、『徳川家茂』や『明治天皇』も御宿泊された歴史を持つ由緒あるお寺。俗に「ご坊さん」の名前で市民に親しまれています。

境内には、『松尾芭蕉』が貞享元年(1684)野ざらし紀行の初旅の折り、本統寺での句会で吟じた、亭主への挨拶句の碑が建立されています。
【 冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす 】(雪の庭に咲く冬牡丹が見事だ。この珍しい花を眺めていると、海辺を鳴きわたるあの千鳥もこの世では得がたい雪中の時鳥のように思われる。)

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桑名市東方に門を構える高野山真言宗密教寺院「神宝山法皇院:大福田寺」「阿弥陀如来」を本尊とします。通りに面して建つ山門は、江戸時代の作と伝えられています。

【古くは伊勢山田にあり、『聖徳太子』の草創と伝えられる。『天武・持統天皇』並びに『聖武天皇』の行幸を受け、伊勢神宮の神宮寺として「大神宮寺」と号した。鎌倉時代中期に、『後宇多天皇』の勅命をうけた伊勢神宮の神官『額田部実澄』と、真言律宗の僧である『忍性(にんしょう)上人』によってこの地に再興された】

このお寺、実は「日本三大聖天」の一つに数えられる「桑名の聖天さん」で有名。 さらに「伊勢七福神」霊場のひとつとしても知られ、特別な「大黒天」が奉られています。

特別な大黒様、それは三つのお顔を持つ「三面大黒天」。「願掛け大黒」とも呼び親しまれており、多くの人々の願いがお体のいたるところを磨きあげ、不思議な色合いを生み出していました。

絵馬に書かれていた福袋に良く似た、小さな福袋が堂内で頒布されていたので、珍しく購入。 神社仏閣への参拝が多い我が家なので、特定の寺社のお守りは、めったに買わないのですが・・なぜか、ご亭主殿が唐突に「これ買って」と言った勢いにつられてしまいましたが、よく考えれば・・いや考えなくても自分で買いなよ!(笑)

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桑名城址に作られた「九華公園」の一角に、德川四天王の一人『本多忠勝』の銅像があります。 『武田信玄』をして、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と言わしめた名将。

最後にもう一箇所、桑名市北寺町に門を構える「海蔵寺」にも参拝のために行きました。が、ここに関しては「宝暦治水」の関連記事として、いずれ別の機会に紹介したいと思っています。

訪問日:2017年3月26日

 

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桑名宗社(春日神社) in 三重県桑名市

2018年02月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

三重県桑名市本町に鎮座される「桑名宗社」。「春日さん」の通称でしられ、桑名の総鎮守社として篤く崇敬されています。 「桑名神社」「中臣神社」の両社から成り、ともに延喜式神名帳の伊勢国桑名郡に記載される式内社。

境内入り口、片町通に面して立つ日本随一の「青銅鳥居」は、寛文7年(1667)に桑名城主『松平定重』が寄進。 慶長金250両(168.75 万円)を費し、鋳物師『辻内種次』に命じて建立させたもので、県有形文化財の指定。

「桑名神社」御祭神は『天津彦根命(あまつひこねのみこと)・天久々斯比乃命(あめのくぐしびのみこと)=桑名首の祖神』「中臣神社」御祭神は、伊勢国造の祖神『天日別命(あめのひわけのみこと)』。相殿に『建御雷神、斎主命、天兒屋根命、比賣神』の「春日四柱神」を祀ります。

社伝に【当初は旧桑部村に「桑名神社」があり、景行天皇40年から45年にかけて宮町、宝殿町と遷座し、現在の本町に鎮まったという。また、「中臣神社」は神護景雲3年(769)、旧上野村の「山上」に創祀。その後、正応2年(1289)に「桑名神社」の境内に遷座。永仁4年(1296)に『春日神四柱』を勧請し、「春日大明神」と呼ばれるようになった。】

天保4年(1833)、『松平定永』によって寄進された三間一戸・重層入母屋造りの楼門。 正面に左大臣・右大臣、裏側に金剛力士像が安置され、その美しさは日本一と謳われていましたが、昭和20年の空襲により焼失。1995年の七百年祭記念事業において、半世紀ぶりに再建されました。

楼門内より神域を守護される「左大臣」。

「右大臣」。桑名の彫り師『森西鶴』氏・作

境内側から見た楼門の垂れ幕は、「桑名石取祭の祭車行事」のユネスコ登録を祝したもの。「石取御神事」は「山・鉾・屋台行事」を構成する祭りの一つで、天下の奇祭としても有名です。

楼門から真っ直ぐ、石灯籠に護られるように拝殿へと至る参道。

向かって「左中臣神社」、御神紋は「上り藤に大」。右に「桑名神社」、御神紋は「上り藤に三」。両社の御神紋は「上り藤に大三」が使われます。

参道左右より神域を守護されるのは、天保三年(1832)壬辰初夏建立の浪花型と呼ばれる狛犬さん一対。吽形さんは頭に角を。阿形さんの大口をあけたお顔は何とも人懐こい。

境内社「皇大神宮御分霊社」。明治40年に「泡州崎八幡神社」「北市場八幡神社・及境内社」を合祀。

明治九年に神宮司庁より、特別に御分霊を受ける許可を頂いた全国で唯一の神社です。

摂社「桑名東照宮」。御祭神は『東照大権現(徳川家康)』

元和3年(1617)に千姫により東照宮を勧請。「徳川家康座像(市指定文化財)」が祀られます。

境内社「住吉神社」。明治40年に無格社(公の資格をもたない神社)一社、境内社二社を合祀し祀られました。

境内社「伊奈利社(稲荷社)」、御祭神は「正一位春日稲荷大明神」。文政8年(1825)に伏見稲荷大社から勧請。明治40年に無格社一社、境内社一社を合祀して祀られました。

境内社「母山(もやま)神社」。御祭神は『火之迦具土神』、火伏せの神として知られます。

岐阜県揖斐川町春日より、1990年8月奉納された「さざれ石」

「拝殿に向かって右側の玉垣内に1.8mの岩石あり。これを陽石または一説に夜泣石とも伝えている。終戦前まではこの陽石を前にして高さ約3m、周囲約3.5m程の空洞になった楠の枯木があって、その前面は大きく割れて、性器崇拝の神木として参詣する者が多かった。玉垣内の栗石を拾って楠の上部に投げ、石がうまく乗ると吉、外れると凶とした。」公式HPより

2007年3月に「桑名石取祭の祭車行事」として「国指定重要無形民俗文化財」に指定された「桑名石取祭」。江戸時代初期に始まったものといわれ、桑名城下の町人や藩士が楽しみにしていた初夏の祭りです。祭車総数43台。全国的に見ても単一の神社、一神事でこれほどの山車が一堂に会する祭りは非常に珍しく、また、試楽日午前零時に一斉に「叩き出し」が行われるその瞬間の音はまさに轟音で、「日本一やかましい祭り」と言われる所以です。43台の祭車の内、堤原町の祭車には『神功皇后』が飾られているそうで、それを詠んだ句碑が奉納されています。

【 山車統(す)べて 鎧皇后 立ち給う 】山口誓子

【 山車の灯に 夜は紅顔の 皇后よ 】 二川のぼる

「桑名間遠社」を宰した美濃派の俳人『千葉兎月』の句碑。句碑の内容は読み取れず・・

参拝日:2017年3月26日

 

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六華苑(旧諸戸清六邸)~Ⅱ~ in 三重県桑名市

2018年02月27日 08時10分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・三重県

昨日に続いての「六華園」、今日は諸戸家お抱え大工であった工匠『伊藤末次郎』が棟梁を務めた「和館」の紹介。まずは旧諸戸邸の表門にあたる長屋門から。建物は木造平屋建、入母屋、桟瓦葺。外壁は当時では格式が高いとされた黒漆喰で仕上げられています。

長屋門を潜った先にある内玄関。和館は大正元年(1912)に建てられたもので、木造平屋:一部2階建。入母屋、桟瓦葺で、庭園側と奥庭側に廊下が配されています。

一階は、西側に客座敷、東側に内向きの座敷があり、洋館と繋がる2階に隠居部屋。綺麗に刈り込まれた庭木の向こうには様々な木々が配置され、ちょっとした森林公園の様相を見せています。

庭園の中央には揖斐川の流れを取り込んだ池が配されており、川の満ち引きで水位が変わる為「汐入り庭園」とも呼ばれています。六華苑庭園は「旧諸戸氏庭園」として2001年に国指定名勝に指定されました。

庭園が作庭された当初は、バラの洋式円形花壇があったそうですが、大正末期から昭和初期に和風の池泉回遊式大幅に改修されたとか。洋館には似合うと思いますが、日本人の感性では、最終的には和風庭園がしっくりと落ち着くのかもしれません。

庭から見る洋館、塔屋と煙り出しの煙突がセピア色にかすんで、まるで古い絵画のよう・・

この時代、洋館と和館を併設する場合はそれぞれを別棟として建てるのが一般的とされていましたが、諸戸邸では洋館より広い和館が壁を接して直に接続されており、普段の生活は和館が中心。周囲を巡るように板廊下が配置され、板廊下と各部屋の間には畳廊下が設けられていました。Jさんのデジカメは不思議な鮮やかさ・・メーカーでこんなにも違うんだね。

真っ直ぐに続く廊下の長さに、単純に感動(笑)

窓越しに見えるお庭の景色の素晴らしさに、素直に感動(笑)

贅を尽くした室内のしつらえの美しさにウットリ(笑)。Jさん曰く・・「自分ちに帰るのが嫌になりそう(-"-)」「うん、わかる v( ^-^(ё_ёゝ」

「離れ屋」は二部屋からなり、西側に上段の間を設けて仏間とし、さらに内部には水屋を設け、茶匠『松尾宗吾』好みの意匠でまとめられています。昭和13年7月の上棟で、桑名市の有形文化財に指定されています。

また敷地内には岐阜県海津町から移築された「旧高須御殿」があり、内部の見学もできるとの事。伝承では高須藩の陣屋にあった御殿の一部とも云われ、旧高須藩陣屋の遺構の1つとして、三重県指定文化財に指定されています。生憎とこの日はウエディング撮影中、待つには時間が足りません。

和館北廊下と接続する土蔵漆喰の建物は「一番蔵」。接客用調度品などが収納されていました。また二番蔵には、膳碗・汁器類が収納されていたそうです。

一番蔵・二番蔵ともに、切妻、桟瓦葺。また画像にはありませんが現在ギャラリーとして使われている「番三蔵」いずれも、大正時代初頭に建てられたもので1996年に三重県指定文化財に指定されています。

最後の紹介は、大正時代初頭に建てられた旧諸戸邸の鎮守社「玉舟稲荷社」。玉垣の変わりに石を塗りこんだ土塀が巡らされています。

2間社、切妻造、平入、桟瓦葺、1間向拝付。「旧諸戸家稲荷社」は1996年に三重県指定文化財に指定されています。

留蓋の上から参拝者を見下ろす飾り瓦の獅子さん。表情と言い、ピンと横にはねた両足と言い、良い出会いをさせて頂けました。

さぁ、これで「六華苑」内は あらかた廻りつくしました・・・名残惜しくとも出口に向かわねば

ワイワイと感想を言い合いながら、長屋門が近づいた瞬間、思わず振り返ってしまい・・もう一度回れ右をしたいような、ここから先に進みたくないような・・何ともやるせない気持ちの自称乙女二人 ('◇')ゞ ('◇')ゞ。呆れつつシャッターを押すご亭主殿 (~_~;)

訪問日:2011年4月9日

 

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