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龍門騒動は200年前、吉野で起きた百姓一揆/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第95回

2018年12月18日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は、毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。先週(12/13)掲載されたのは「百姓一揆の龍門騒動/吉野町の平尾代官所跡」、筆者は「姫路から来た優等生」こと池内力(いけうち・ちから)理事。姫路市ご出身・在住ながら、奈良県、特に吉野に足しげく通ってくださっている。龍門騒動については故永島福太郎氏(歴史学者)が、こんな解説を『世界大百科事典』に書かれている。
※写真は平尾代官所跡(吉野町)

竜門騒動(りゅうもんそうどう)
大和国吉野郡の旗本(前奈良奉行)中坊氏(3500石)の知行所竜門郷(現在の吉野郡吉野町と宇陀市の旧大宇陀町にわたる21村のうち15村)に起こった年貢減免強訴の百姓一揆。1818年(文政1)年貢増徴の非をとなえて西谷村細峠の小商人又兵衛らが住民数百人を呼集(14村),平尾村の代官所に押しかけて浜島清兵衛を殺害,さらに大庄屋宅を襲った。浜島は各村庄屋を召して饗応の最中だった。村民の説得を命じたらしい。

騒動は一夜で終わったが,奈良奉行所与力が出動して村民ら300人余を検挙,奈良に連行,いったん全員を釈放したが,改めて村民約1000名を召喚して取り調べ,首謀者10余名を翌年断罪した。この一揆に関して1から20に至る数え歌が生まれ,苛政や拷問などの惨状を伝えている。ちなみに吉野郡は幕府直領,竜門郷は唯一の私領である。中坊氏の重課や代官の悪政が糾弾されたが,直領の吉野郡はむしろ優遇されていたから,竜門郷では不満がいっそうつのったといえる。[永島 福太郎]


なるほど。根には、
幕府直領(天領)だった「吉野郡」vs中坊氏の私領だった「龍門郷」
という対立軸があったのだ。今でも「奈良県の田地の多くは(優遇されていた)天領だったので、県民の性格が穏やかになった」という話がある。今年は龍門騒動200周年の年なので、タイムリーな紹介だった。では最後に、池内さんの記事全文を紹介する。


代官・浜島清兵衛の墓(吉野町)。立札には「不運の代官」とある

龍門(りゅうもん)騒動とは、今から200年前の1818(文政元)年12月15日に吉野の龍門郷で起こった百姓一揆のことです。この地の15村・3,500石は中坊((なかのぼう)氏の領地で、平尾村には代官所が設けられていました。当時の農民の生活は苦しく、年貢減免の声が強かったことから、代官の浜島清兵衛は庄屋を集めて農民をなだめるように酒食を振舞っていました。

こうした中、蓑笠(みのかさ)姿で竹やりを持って集った600人余りの農民が、代官所になだれ込みました。代官は先頭の若者を袈裟(けさ)切りにしましたが、最後は農民に惨殺されました。この騒動は奈良奉行所の知るところとなり、翌年11月、首謀者は死罪などになりました。今、平尾代官所跡とされる場所には石積みが残っています。また、平尾区共同墓地の一角には、代官の自然石の墓が建てられています。

■メモ  近鉄大和上市駅からコミュニティーバスで「津風呂湖北口」下車。平尾代官所跡は南へ徒歩1分、代官の墓は南西へ徒歩10分(奈良まほろばソムリエの会理事 池内力)。


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