
南都銀行本店(奈良市橋本町16)は、長野宇平治の設計による登録有形文化財だ。「文化遺産オンライン」によると、
※トップ写真は水谷園(みずのや・その)さん。2020.6.23撮影
正面に4本のイオニア式の列柱を並べ細部に装飾を施す外観は、古典様式を簡潔にまとめた好例。昭和28年に背後に増築し、その後窓枠や内装の改修を受けたが、外観はよく保存されている。設計長野宇平治、施工大林組。古都奈良の数少ない様式建築の一つ。
羊の彫刻で知られるが、これを彫ったのが水谷(みずのや)鉄也で、なんと!一刀彫りの森川杜園(とえん)のお弟子さんだったそうだ。先日、お孫さんの水谷園(みずのや・その)さんが来行された。知人の寮美千子さんから連絡があり、担当部に取り次いだのだが、建物内部も見学していただき、とても喜んでいただいた。それを寮さんが、毎日新聞奈良版の「ならまち暮らし」(2020.7.15付)で紹介してくださった。以下、記事全文を紹介する。
森川杜園(とえん)は、幕末から明治にかけて奈良で活躍した一刀彫りの名手だ。その展覧会が、ならまちの「にぎわいの家」であったのだが、コロナ騒動で外出を控えていたら、見逃してしまった。残念だと思っていたら、同じように残念がっている人がいた。友人の友人の水谷園(みずのや・その)さん(74)だ。祖父・水谷鉄也が郡山中学(現在の郡山高校)在学中に森川杜園に師事。杜園晩年の最後の弟子だったという。
園さんは、20代でフランスに渡り、長く彼の地で暮らし、一時帰国で京都に滞在中。「園」という名も、杜園から一字もらったもので、なんとしても杜園の作品に触れたいという。それならと、友人が一肌脱ぎ、杜園作品を見せてくれる古物商を見つけて、彼女を奈良に招待した。わたしも協力し、わが家にお泊まりいただくことになった。
実は、園さんの祖父・鉄也の作品が、奈良に残されている。東向商店街の南都銀行本店の柱にある羊と花綵(はなづな)の装飾彫刻だ。彼がこれを作ることになった経緯が興味深い。鉄也は郡山中学に在学中に、奈良県の技師宅に寄宿していた。そこによくやってきたのが、建築家・長野宇平治。当時、奈良県庁舎を設計するために横浜から奈良に赴任していた。二人は顔見知りになる。
杜園を喪(うしな)った鉄也は、上京し東京美術学校で高村光雲に木彫を学ぶ。高村光太郎が学友だった。卒業後、大阪博覧会の噴水の観音像を製作していたとき、偶然、長野が見学に来て再会を果たす。彼は、日銀大阪支店新築の技師長として赴任していたのだ。長野35歳、鉄也26歳。
杜園の弟子だった少年が、立派な彫刻家となっていることに驚いた長野は、さっそく鉄也に日銀の装飾彫刻を依頼。ここから、二人は協力して数々の名建築を手がけることになった。その一つが、1926(大正15)年竣工(しゅんこう)の現南都銀行本店だ。東向商店街のアーケードに阻まれて全貌が見えないが、実に立派な古典ギリシャ様式の建造物だ。正面のイオニア式円柱の羊の彫刻が、鉄也の作品である。
「戦争中、祖父のブロンズ像の多くが金属供出で鋳潰(いつぶ)されました。フランスで学び、ロシア風のミジンスキーというあだ名を持っていた祖父には、欧米の友人が多くいました。自分の作品が弾丸になって友を殺すことになるとは、どんなにかつらかったことでしょう。祖父は生きる気力をなくし、死ぬような病気でもなかったのに、戦争中に67歳で亡くなってしまったのです。死後、駒込の家も空襲にあい作品を焼失。だから、石造りのこんな作品が残っているのが、とてもうれしいんです」
しかし、調べると鉄也は「爆弾三勇士像」「乃木希典像」といった戦争協力的な作品も作っている。皮肉にもそれらは「軍神」であるために供出されなかった。「美術学校教授として断れなかったのかも。片瀬江ノ島の乃木希典像は最後の最後まで残りましたが、戦後、軍神ゆえに引き倒されました。祖父はそれを知らずに亡くなりました。かえってよかったのかもしれません」豊かさの象徴である羊の彫刻。その背後には、思わぬ物語が刻まれていた。(敬称略)(作家、詩人)=次回は29日
※トップ写真は水谷園(みずのや・その)さん。2020.6.23撮影
正面に4本のイオニア式の列柱を並べ細部に装飾を施す外観は、古典様式を簡潔にまとめた好例。昭和28年に背後に増築し、その後窓枠や内装の改修を受けたが、外観はよく保存されている。設計長野宇平治、施工大林組。古都奈良の数少ない様式建築の一つ。
羊の彫刻で知られるが、これを彫ったのが水谷(みずのや)鉄也で、なんと!一刀彫りの森川杜園(とえん)のお弟子さんだったそうだ。先日、お孫さんの水谷園(みずのや・その)さんが来行された。知人の寮美千子さんから連絡があり、担当部に取り次いだのだが、建物内部も見学していただき、とても喜んでいただいた。それを寮さんが、毎日新聞奈良版の「ならまち暮らし」(2020.7.15付)で紹介してくださった。以下、記事全文を紹介する。
森川杜園(とえん)は、幕末から明治にかけて奈良で活躍した一刀彫りの名手だ。その展覧会が、ならまちの「にぎわいの家」であったのだが、コロナ騒動で外出を控えていたら、見逃してしまった。残念だと思っていたら、同じように残念がっている人がいた。友人の友人の水谷園(みずのや・その)さん(74)だ。祖父・水谷鉄也が郡山中学(現在の郡山高校)在学中に森川杜園に師事。杜園晩年の最後の弟子だったという。
園さんは、20代でフランスに渡り、長く彼の地で暮らし、一時帰国で京都に滞在中。「園」という名も、杜園から一字もらったもので、なんとしても杜園の作品に触れたいという。それならと、友人が一肌脱ぎ、杜園作品を見せてくれる古物商を見つけて、彼女を奈良に招待した。わたしも協力し、わが家にお泊まりいただくことになった。
実は、園さんの祖父・鉄也の作品が、奈良に残されている。東向商店街の南都銀行本店の柱にある羊と花綵(はなづな)の装飾彫刻だ。彼がこれを作ることになった経緯が興味深い。鉄也は郡山中学に在学中に、奈良県の技師宅に寄宿していた。そこによくやってきたのが、建築家・長野宇平治。当時、奈良県庁舎を設計するために横浜から奈良に赴任していた。二人は顔見知りになる。
杜園を喪(うしな)った鉄也は、上京し東京美術学校で高村光雲に木彫を学ぶ。高村光太郎が学友だった。卒業後、大阪博覧会の噴水の観音像を製作していたとき、偶然、長野が見学に来て再会を果たす。彼は、日銀大阪支店新築の技師長として赴任していたのだ。長野35歳、鉄也26歳。
杜園の弟子だった少年が、立派な彫刻家となっていることに驚いた長野は、さっそく鉄也に日銀の装飾彫刻を依頼。ここから、二人は協力して数々の名建築を手がけることになった。その一つが、1926(大正15)年竣工(しゅんこう)の現南都銀行本店だ。東向商店街のアーケードに阻まれて全貌が見えないが、実に立派な古典ギリシャ様式の建造物だ。正面のイオニア式円柱の羊の彫刻が、鉄也の作品である。
「戦争中、祖父のブロンズ像の多くが金属供出で鋳潰(いつぶ)されました。フランスで学び、ロシア風のミジンスキーというあだ名を持っていた祖父には、欧米の友人が多くいました。自分の作品が弾丸になって友を殺すことになるとは、どんなにかつらかったことでしょう。祖父は生きる気力をなくし、死ぬような病気でもなかったのに、戦争中に67歳で亡くなってしまったのです。死後、駒込の家も空襲にあい作品を焼失。だから、石造りのこんな作品が残っているのが、とてもうれしいんです」
しかし、調べると鉄也は「爆弾三勇士像」「乃木希典像」といった戦争協力的な作品も作っている。皮肉にもそれらは「軍神」であるために供出されなかった。「美術学校教授として断れなかったのかも。片瀬江ノ島の乃木希典像は最後の最後まで残りましたが、戦後、軍神ゆえに引き倒されました。祖父はそれを知らずに亡くなりました。かえってよかったのかもしれません」豊かさの象徴である羊の彫刻。その背後には、思わぬ物語が刻まれていた。(敬称略)(作家、詩人)=次回は29日

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