tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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田中利典師「平成の花咲爺さんを悼(いた)む」

2023年05月11日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「花咲か爺さんの話」(2010.3.8)である。長年、近畿日本鉄道に勤務され、退職後は金峯山寺で事務職をされていたTさんは、蔵王堂前の四本桜を大事にされ、種を拾ってはご自分の畑で育てておられた。
※トップ写真は、吉野山花矢倉からの眺望(2023.3.31 撮影)

その苗木は、全国の金峯山寺ゆかりのお寺などに贈呈された。Tさんは亡くなり、四本桜の古木も枯れたが、その子孫は今もすくすくと成長しているだろう、という心温まる話である。

吉野山のシロヤマザクラは、私も苗木まで育てたことがある。「第2回 さくらの学校」(2009.6.13)というイベントで、夏場に吉野山へ行き、サクランボ(200~300粒)を採取し、種だけを取り出して洗い、乾かした。冷蔵庫で冬を経験させ、翌年2~3月頃、プランターに植え替えた。

しかし1年目は全く芽が出ず、2年目になってやっと2~3本が芽を出した。これらを吉野山に移植したが、鹿に食われて全滅!という苦い経験である。では利典師の全文(金峯山時報「蔵王清風」に掲載)を、以下に紹介する。

花咲か爺さんの話
恒例の機関誌(金峯山時報)に書いている「蔵王清風」今月の早出しです。ご笑覧あれ。

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「花咲か爺さんの話」

ひとりの桜守りの老人が亡くなった。老人は桜守りが本職ではない。長年近鉄に勤務して最後は駅長を務めた後、退職後金峯山寺で事務に従事されたT氏である。最近は本山もやめて悠々自適の毎日だったが、時々顔を出してくれていた。昨年末に肺炎で急逝されたのだが、惜しい人を亡くした。

そのTさん。桜守りは趣味でやっておられた。それも蔵王堂前の、四本桜の一番の古木を大事にされていた。この桜は故五條順教管長猊下も吉野山の桜の中で最も気に入られていたもので、毎年、翁はその古木桜の種を拾っては自分の畑に播いて育成されておられたのである。

Tさんとは本山勤務を通じて、親しくしていただくようになった。そのご縁で、実はTさんから、四本桜の苗木を分けていただき、吉野とご縁のある名刹寺院などに何度となく送ることとなった。

一番最初は源義経の奥州潜行800年記念の年に、平泉の毛越寺に若木を贈った。義経と吉野の縁によるものである。数年前には上野の寛永寺にも贈った。ある席でご一緒した寛永寺の執事長との間で桜が話題になり、上野の桜は元々天海僧正の時代に、金峯山寺初代管領となった天海さんの命で、吉野山の山桜が寛永寺に植えられたのが始まりだったこと。

当初の山桜はその後絶えてしまい今はソメイヨシノばかりになっていること…などなどを話すうち、本家吉野山の桜をお贈りしようということになったのである。

また今月初めには、浅草寺と、天海さんの出身寺である川越の喜多院にも贈った。生前中に約束をしていた桜である。浅草寺では義経千本桜とのご縁で歌舞伎の市川團十郎の碑の側に植えられることになっている。このほか、吉野山同様に後醍醐天皇縁の笠置・金胎寺をはじめ、岡山のハンセン氏病支援施設愛生園や、私の自坊にも送っていただいている。

実は老人は亡くなる一ヶ月ほど前に事務所を訪ねてきてくれて私と歓談した。そのとき、「Tさんが亡くなっても、Tさんの育てた桜は全国の吉野ゆかりの名刹寺院でたくさんの花を咲かせるからねえ…」といったら、とてもはにかんでうれしそうにされていたのを今でも思い出す。

時を置かず言ったとおりになったのだが、平成の御代に老人が丹精を込めた四本桜の古木が全国の人々に愛でられることを思うと、大きな供養になるなあとひとり思いを巡らせている。四本桜の古木は残念なことに昨年枯れて植え替えられてしまいもう本家の吉野山にはないが、毛越寺や寛永寺や浅草寺などで、いずれ大きな大きな花を咲せてくれることだろう。
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