こんなスゴいウォーキング・ツアーがある。NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」がガイドするスペシャルツアーだ。事前解説会のあと興福寺旧境内を歩き、中金堂の再建現場や仮講堂も見学する。料金は@4,500円。全10回だが、初回(9/16)はすでに満員札止めとなった。チラシデータは、こちら。主催者である奈良市観光協会のHPによると、
興福寺旧境内古地図ウォーキング(9月~11月・全10回)
世界遺産 興福寺は、かつて藤原氏の氏寺として広大な寺域を誇る大寺院でした。往時の興福寺の勢威に思いを馳せながら、特製古地図イラストを手に興福寺旧境内をめぐります。
【ポイント】
①広大な興福寺旧境内を徹底探訪!
②再建中の中金堂再建現場にご案内!
③特製古地図イラスト (非売品)進呈!
④国際味覚審査機構で優秀味覚賞3つ星を獲得の興福寺精進ふりかけお土産付き!
⑤2名様から催行確定!
実施予定日は今年(2017年)の9月27日(水)、10月18日(水)、10月21日(土)、10月25日(水)、11月 3日(祝)、11月 8日(水)、11月11日(土)、11月15日(水)、11月18日(土)。仮予約・お申し込みは、こちらのサイトから。
ツアーに先立ち、8月30日(水)、ガイド担当者など向けに約2時間の研修会を開催した。講師は森下惠介さん(奈良市埋蔵文化財調査センター前所長)で演題は「興福寺~大和を支配した寺院の興亡~」。森下さんのご著書『今昔 奈良名所』によると興福寺は、
江戸時代、興福寺は、春日社と合わせて1万石を越える所領を持ち、大乗院、一乗院の両門跡を筆頭に20余りの子院があったが、享保2(1717)年の火災によって、中金堂、西金堂、講堂、回廊、中門、南大門などの主要伽藍を失った。
西国三十三所第九番札所の南円堂が寛政元(1789)年に再建され、文政2(1891)年になって、大坂の町人の寄進でようやく仮金堂が建てられ、明治維新を迎えた。
慶応4(1868)年に神仏判然令(いわゆる神仏分離令)が出され、興福寺と春日社との分離が図られると、興福寺一山はいち早く復職願を出し、一山は還俗して春日社の新宮司となり、興福寺の所領も明治4年には没収され、翌5(1872)年には興福寺の廃寺指令が出された。
境内を囲む大垣(築地塀)は、当時の奈良縣令四条隆平(しじょう・たかとし)によって取り壊され、奈良の人々は「四条は五条(強情)でドベたれ(土塀倒れ・ドベタレ[ビリケツ、最低])だ」と評したという。
さらに明治6年には三蔵(みつくら 正倉)、食堂細殿が取り壊された。金泥の経巻が金を取るために焼かれ、天平写経や古文書が奈良漆器の包み紙となり、仏像、仏具は売り払われ、海外へと流失し、五重塔が5圓あるいは50圓で売りに出され、金具を取るために焼かれそうになったというのもこの頃の話とされる。
なんともすさまじいことが起こったのである。このツアーは、「奈良まほろばソムリエの会」でガイド活動を担当する「ガイドグループ」の精鋭たちがガイドする。上記のようなウンチクが、興福寺旧境内の遺跡などを巡りながら展開する。
参加申し込みは続々と入ってきている。お申し込みは、お早めにこちらのサイトへ!

興福寺旧境内古地図ウォーキング(9月~11月・全10回)
世界遺産 興福寺は、かつて藤原氏の氏寺として広大な寺域を誇る大寺院でした。往時の興福寺の勢威に思いを馳せながら、特製古地図イラストを手に興福寺旧境内をめぐります。
【ポイント】
①広大な興福寺旧境内を徹底探訪!
②再建中の中金堂再建現場にご案内!
③特製古地図イラスト (非売品)進呈!
④国際味覚審査機構で優秀味覚賞3つ星を獲得の興福寺精進ふりかけお土産付き!
⑤2名様から催行確定!
実施予定日は今年(2017年)の9月27日(水)、10月18日(水)、10月21日(土)、10月25日(水)、11月 3日(祝)、11月 8日(水)、11月11日(土)、11月15日(水)、11月18日(土)。仮予約・お申し込みは、こちらのサイトから。
![]() | 今昔(いまはむかし)奈良名所 |
森下惠介 | |
奈良新聞社 |
ツアーに先立ち、8月30日(水)、ガイド担当者など向けに約2時間の研修会を開催した。講師は森下惠介さん(奈良市埋蔵文化財調査センター前所長)で演題は「興福寺~大和を支配した寺院の興亡~」。森下さんのご著書『今昔 奈良名所』によると興福寺は、
江戸時代、興福寺は、春日社と合わせて1万石を越える所領を持ち、大乗院、一乗院の両門跡を筆頭に20余りの子院があったが、享保2(1717)年の火災によって、中金堂、西金堂、講堂、回廊、中門、南大門などの主要伽藍を失った。
西国三十三所第九番札所の南円堂が寛政元(1789)年に再建され、文政2(1891)年になって、大坂の町人の寄進でようやく仮金堂が建てられ、明治維新を迎えた。
慶応4(1868)年に神仏判然令(いわゆる神仏分離令)が出され、興福寺と春日社との分離が図られると、興福寺一山はいち早く復職願を出し、一山は還俗して春日社の新宮司となり、興福寺の所領も明治4年には没収され、翌5(1872)年には興福寺の廃寺指令が出された。
境内を囲む大垣(築地塀)は、当時の奈良縣令四条隆平(しじょう・たかとし)によって取り壊され、奈良の人々は「四条は五条(強情)でドベたれ(土塀倒れ・ドベタレ[ビリケツ、最低])だ」と評したという。
さらに明治6年には三蔵(みつくら 正倉)、食堂細殿が取り壊された。金泥の経巻が金を取るために焼かれ、天平写経や古文書が奈良漆器の包み紙となり、仏像、仏具は売り払われ、海外へと流失し、五重塔が5圓あるいは50圓で売りに出され、金具を取るために焼かれそうになったというのもこの頃の話とされる。
なんともすさまじいことが起こったのである。このツアーは、「奈良まほろばソムリエの会」でガイド活動を担当する「ガイドグループ」の精鋭たちがガイドする。上記のようなウンチクが、興福寺旧境内の遺跡などを巡りながら展開する。
参加申し込みは続々と入ってきている。お申し込みは、お早めにこちらのサイトへ!

