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tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

万博も開幕し、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

冬至と天の岩屋戸ごもり

2011年12月23日 | 日々是雑感
2012 日本人のしきたり手帳
飯倉 晴武 (監修)
青春出版社

昨日(12/22)は二十四節気の1つ「冬至」だったので、県下ではいろんな行事が行われた。奈良新聞(12/22付)によると《1年中で一番夜の長い日で、この日を境に昼間の時間が長くなることから、古代では年の初めと考えられたこともあったという》《奈良市菩提山町の正暦寺では、訪れた参拝客にカボチャ尽くしの精進料理が振る舞われる。同寺近くにある奈良市高樋町の農家レストラン「清澄の里 粟」では、育てているユズの木に黄色い実がたわわに実った。先月下旬から料理に使い始め、カブと一緒に土佐酢に漬けたものが好評》。この「清澄の里 粟」は、ミシュラン奈良で1つ星を獲得している。

また同紙12/23付には《「冬至」にちなんで22日、奈良市押熊町の天然湧出温泉「ゆららの湯」押熊店と同市八条5丁目の奈良店の2店舗で「生ゆず湯の日」を実施。入浴客をゆず湯でもてなした。平成13年の奈良店の開店以来、同店が毎年行っている恒例行事。押熊、奈良両店では主に徳島産のユズ約1千個をそれぞれ用意。ユズを入れた湯は血行促進や風邪予防のほか、美容にも効果があるとされ、古くから冬至の行事として親しまれている》。

「冬至冬中 冬初め(とうじふゆなか ふゆはじめ)」という俚諺(りげん)があるのだそうだ。サーチナニュース(12/22付)によると《暦の上では立冬から冬が始まって冬至は冬の真ん中に当たるが、実際の季節感ではこれからが冬本番。そのことを表して「冬至冬中冬初め」と言われる。特に今年は秋が暖かかったせいもあり、なおさら、この言葉が実感される。京都の紅葉も、東京・外苑前の銀杏並木も、12月上旬が見ごろであった。今日の冬至に続いて、この週末はクリスマスだが、やっと秋が終わったばかりで、もうクリスマス?との感覚だ。季節感が狂う》。インフルエンザの流行も、これからが本番だ。

今朝(12/23付)の毎日新聞「余録」(魔法の薪)は、冬至の祝い火を題材にしていたと、松永洋介さんに教えていただいた。《クリスマスケーキの一つにブッシュ・ド・ノエルがある。ロールケーキをココアクリームで覆って丸太に見立て、デコレーションを施したものといえばお分かりか。英語圏で「ユール・ログ」と呼ばれるクリスマスの大薪(まき)をかたどったケーキだ。この薪、もともとは冬至の祝い火にたかれたものだったらしい。太陽の復活を助け、新しい時をもたらそうという土着の冬至の祝祭とキリスト教信仰が結びついたクリスマスである》。

《ユール・ログは森のブナやカシワなどから切り出され、家の暖炉へと運び込まれた。人類学者フレーザーの「金枝篇」によれば、この薪は太陽の輝きを増すほかに、種々の魔力を持つとされた。炭や灰を畑にまけば作物の生育を助け、燃え残りを保存しておけば家を雷や火事などの災害から守る。家畜を多産にし、病を治す御利益の言い伝えもあった。家族のだんらんを暖め、この世に光をよみがえらせ、人々の暮らしを災いから守る。そんな魔法がいつにもまして欲しい今冬の日本列島だ》。

古事記の世界 (岩波新書 青版 E-23) (岩波新書 青版 654)
西郷信綱
岩波書店

ところで『古事記』には、太陽神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)の「天の岩屋戸(あめのいわやと)ごもり」という神話が登場する。この話は「冬至」を象徴したものだとする説がある。Wikipedia「天岩戸」によると《天照大神が天岩戸に隠れて世の中が闇になるという話は、日食を表したものだという解釈と、冬至を過ぎて太陽が弱まった力を取り戻すということを象徴したものとする見方がある。日食神話、冬至神話とも世界各地にみられる》。

『古事記』の神話は、宮中祭式などをモチーフ(=創作動機となる思想・題材)としている。西郷信綱著『古事記の世界』(岩波新書)によると《古事記の神代の物語には、何らかの祭式行為と関連を有し、それをモチーフ――原因ではなく――としている様相が陰に陽に見てとれるものが多い》《宮廷鎮魂祭は11月の中の寅の日におこわれることになっていた。この日付で注目されるのは、それがほぼ冬至のころと一致する点でなければならない》。しかも、その翌日が大嘗(新嘗)祭の日であった。

《大嘗祭の中核をなすのは、天子が大嘗殿にこもっておこなう秘儀であった。(中略) 実はそこで死と復活の擬態が演じられ、それによって新しい君主が春とともに誕生するわけで、この秘儀こそが記紀をして「こもる」という語をかたくなに守らせた根であったと考えられる》《かくしてここには、根の国と高天の原、闇と光、夜と朝、冬と春、死と再生といったさまざまな原始的映像が交錯しあっている(中略) 肝腎なのは、古代人の経験のあらわれとして、これを、祭式と神話の力学のなかで読みとることである》。つまり、太陽神の力が最も弱まる「冬至」(宮廷鎮魂祭の日)の翌日が、君主の誕生を意味する大嘗祭(新嘗祭)の日、という関係(冬→春、死→再生)になる。ここには、ヨーロッパの「太陽の復活を助け、新しい時をもたらそうという土着の冬至の祝祭」と重なる部分がある。

ゆず湯に始まり、魔法の薪から大嘗祭まで、話がワープしてしまった。これは『古事記』の読み過ぎだろうか。
コメント (4)
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