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tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

万博も開幕し、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師の「和顔愛語(わげんあいご)」(書き下ろしエッセイ その6)

2025年04月18日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈怒りは不幸を招き入れ、笑いは幸せを呼びこむ〉(師のブログ 2019.2.16 付)。利典師は新聞から連載の依頼を受け、6編のエッセイを書き下ろされた。しかしその企画がボツになったので、師はご自身のブログとFBに、それらを掲載された。今日は、その最終回である。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜(コロナ禍の2020.3.30 撮影)

師は〈和やかな笑顔と、思いやりのある話し方で人に接すること。「和顔愛語」は布施であり、布施ある生き方をすることでもある。そうすれば幸せを呼び込む「笑い」の種を蒔くことになる〉とお書きである。

これは大事なことだ。よくお店などで、店員に怒鳴り散らしている老爺がいるが、少しは「和顔愛語」を心がけてほしいものだ。では、記事全文を紹介する。

「怒りは不幸を招き入れ、笑いは幸せを呼びこむ」
「笑う門には福来たる」という。至極当たり前の話である。笑っていると福徳が集まってきて、自分も幸せになるし、周りも幸せに感じる。反対に、怒ってばかりいる人の周りには幸せは訪れにくい。怒っている本人も幸せにはならない。機嫌が悪いから怒るのだし、怒ればなおさら機嫌は悪くなる。

仏教では「和顔(わげん)愛語」という言葉がある。布施を表す言葉である。布施は梵語でダーナという。人に施すというほどの意味であるが、その施しには「財施」「法施」「無畏施」の三種があり、その他に財物を損なわない七つの布施として、「無財の七施」が説かれる。

お金のかからない布施である。その「無財の七施」のうち、「和顔悦色施」と「言辞施」を合わせたものが「和顔愛語」である。すなわち、和やかな笑顔と、思いやりのある話し方で人に接すること。「和顔愛語」は布施であり、布施ある生き方をすることでもある。そうすれば幸せを呼び込む「笑い」の種を蒔くことになるのである。

といいつつ、私は若い頃から、普段の顔が怖いといわれてきた。「和顔愛語」にはほど遠くて、しかめっつらの不機嫌顔だったのである。ときどき「なんでそんなに怒っているの」と言われたこともあるが、「ほっといて頂戴。私の顔はもともとこんな顔」とうそぶく始末だった。

ただ近頃は心がけて、笑顔で生きている。「笑う門には福来たる」のは明白だから、努力してでも、「福来たる」顔にしないと損だと、ようやく気がついたからである。

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書き下ろし第6弾ということになりましょうか?まあ、気楽に書かせていただきます。
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田中利典師の「人間の本質は繋がり」(書き下ろしエッセイ その5)

2025年04月16日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈人間の本質は繋がりにある〉(師のブログ 2019.2.5 付)。利典師は新聞から連載の依頼を受け、6編のエッセイを書き下ろされた。しかしその企画がボツになったので、師はご自身のブログとFBに、それらを掲載された。今日は、その第5弾である。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜(コロナ禍の2020.3.30 撮影)

師は他のところでもお書きだが、〈自分が生きていること、生かされてきたこと、これから生きること、それらが全部繋がっている。社会とも歴史とも先祖とも宇宙とも全部繋がっているということを実感することが、いまを生きる大きな支えになるのではないか。山修行で得た、私の大きな人生のキーワードになっている〉。では、以下に全文を紹介する。

「人間の本質は繋がりにある」
山の修行で学んだこと、感じたことはたくさんある。その一つに、吉野から熊野に至る大峯奥駈修行で強烈な体験をした。それを紹介しよう。その日は朝からものすごい雨が降っていた。もう体中ぐしょぐしょ。行中は1日に20箇所ぐらい峰中の「靡」(なびき)という場所で勤行するのだが、そのときは七曜岳の遥拝所で勤行をしていた。

ずっと雨が落ちていた。その勤行をするわずかな時間、ふと、そこで勤行をしている自分と、降っている雨と、雨を受けている草や樹や大地や岩と、雨を降らしている空や雲やあらゆるものが、まさに自分と繋がっているということを実感したのだ。これはもう突然、雷鳴に打ち抜かれた如き感覚だった。

その日はすでに早朝から8時間ぐらい歩いていた。正直、くたくただった。行に入って3日目だと思うが、疲労困憊しながら一生懸命お勤めをしている中で、自我が消滅して、自分は降ってる雨とも、雨を受けている草とも大地とも空とも、全部繋がっているということを体中で感じたのだ。そしてすべてが繋がっていることを感じたその途端に、私の「死」への恐怖が消えたのだった。

私は幼い頃から死を考えると、常に大きな恐怖に襲われた。それは、地球を宇宙の外側から見ている自分がいて、全てから疎外され、自分だけ死んで、それでも地球はいままで通りに運行をしている、そういう思いを抱いたのだ。ものすごい孤独感、恐怖感にさいなまれる感覚である。

それが私にとって死への恐怖を生む原因だったのだけれど、すべてのモノと繋がっているということが実感できた時に、死に対する恐怖が極めて小さくなって行くのを感じたのだった。自分は全てと繋がっているということを、山の修行がすんなりと心に教えてくれたのだ。

自分が、私が、というような我執が消えて「懺悔(さんげ)懺悔 六根清浄」を繰り返す中で、全てのものと繋がっている自分を諒解することが出来た。これは単に人と人との繋がりだけではなくて、延べては家族とか友人とか地域社会とか国家とか、なおそういうものだけでもなく、先祖との繋がり、人間が持ってきた歴史との繋がり、過去の繋がり、そして未来への繋がり。風土との繋がり、自然、宇宙、森羅万象、それら全部と繋がっているということを、山の修行で突然に体感したのだった。死んだ先の繋がりさえも感じたのである。

これを私は「人間の本質は繋がりにある」いう言葉で言い表している。たとえば、人間とはなんぞやと考えた時に人間の本質は、実はなかなか見つけることができない。人間の本質っていうのはこれだ、というものはないのかもしれない。いや、人間の本質は、繋がり合う側にこそあるのだ、ということなのだ。

例えば、「夫婦」という本質は実はなくて、ここに奥さんがいて旦那さんがいるから、夫婦というものがある。親子も、ここに自分がいて子供がいるから親子というものが出来上がる。つまりこの繋がりの方にこそ本質があるのではないか。心というものの本質もなかなか難しい。

でも心という本質は難しいけれども、悲しい時には悲しくなる、辛い時には辛くなる、楽しい時には楽しくなる、繋がりの中に現れてくるものに本質があるのではないか。そういう繋がりの中に本質があるということを、山の修行が私に気づかせてくれたのである。

孤独な生の克服というのは、繋がりの中に自分があるという事を自覚するところに生まれる、と思う。自分というものを極めようとして、自分を中心に物を考えると、どんどん孤立する、孤独になっていく可能性が、人間の心の中にはある。

逆に、繋がりの中に本質があるということを思うと、今、自分が生きていること、生かされてきたこと、これから生きること、それらが全部繋がっている。社会とも歴史とも先祖とも宇宙とも全部繋がっているということを実感することが、いまを生きる大きな支えになるのではないか。山修行で得た、私の大きな人生のキーワードになっているのである。
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田中利典師の「人生で起きることは、すべて必然だ」(書き下ろしエッセイ その4)

2025年04月14日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈偶然と必然〉(師のブログ 2019.2.4 付)。利典師は、毎日新聞から連載の依頼を受け、6編のエッセイを書き下ろされた。しかしその企画がボツになったので、師はご自身のブログとFBに、それらを掲載された。今日は、その第4弾である。改元を間近に控えた平成31年2月、師がアップされた話だ。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜(コロナ禍の2020.3.30 撮影)

〈人生において出会うことに、何一つ偶然というものはない〉〈人生において無駄なことなど何一つない〉〈苦労も災禍も私の人生そのもの〉。そう思うと、何だか生きているだけで有り難いな、という気持ちになる。では、全文を紹介する。

「偶然と必然」
人生において出会うことに、何一つ偶然というものはないと私は思っている。全てが必然なのである。というか、必然と思うところに、自分を自分たらしめるものに気づくものがある、と考えている。

人生において起こる様々なことを、誰かの責任にしたところでナンの意味があるというのか。結局は全部、自分自身で背負うしかない。背負うしかない以上は、そこに「必然」を見いだして、自分自身を励まし、自戒し、精魂を尽くすことがなにより肝要だろう…。

私は一方で、人生において無駄なことなど何一つないと思っている。どんな苦労や苦難にしても、それこそが自分の人生なのである。逃げようが避けようが、どう生きようが、全てそれこそが人生そのものなのである。

不幸も幸いも自らの責任で作り出した現象と言えよう。だからこそ、偶然にして不幸になった、苦難を強いられた…などと思わずに、その運命を必然と受け止め、懸命に生きることこそが、今生での自分の人生なのである。

そう思うと、どんなに苦しくても、悲しくても、少しは楽に生きられるのではないだろうか。前向きな気持ちを持てるようになるのではないだろうか。人生には楽なことばかりが待っているわけではない。楽なことより苦しいことの方が多いに決まっている。いや、そんなことはないという人もいるのかもしれないが、私自身はそう思わずにはいられない。

ただ、そう思ってはいるが、よいもわるいも、全部の出来事自体が自分の人生そのものだと受け止め、全部を必然だと受け入れると、苦労ばかりが多いともいえない気持ちもわいてきて、なにやら生きていること自体が有り難いような気持ちになってくる。前向きに生きていくことがなにやら無性に有り難く思えてくるのである。

私は仏縁を得て僧侶になったが、それなりに苦労もしたし、災禍にも遭った。ときには僧侶を辞めて還俗しようと思った時期もあったが、法鑞(ほうろう=出家受戒後の年数)50年を目の前に、改めてその仏縁に感謝している。苦労も災禍も私の人生そのものである。そして仏縁を得て、今を生かされているのも、必然の中に生きる、有り難い私の人生である。

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書き下ろし第4弾。今回のはちょっと以前の文章を改編して、書いてみました。昨日の節分・今日の立春で、新しい節目を迎えた。今年は年号も変わる、大きな時代の変わり目であるが、そんな1年を思う中で、じっと自分の心に問いかけてみている。
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田中利典師の「恩返し」(書き下ろしエッセイ その3.)

2025年04月11日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈受けた恩の恩返し〉(師のブログ 2019.2.2 付)。利典師は、毎日新聞から連載の依頼を受け、6編のエッセイを書き下ろされた。しかしその企画がボツになったので、師はご自身のブログとFBに、それらを掲載された。今日は、その第3弾である。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜(コロナ禍の2020.3.30 撮影)

私も父母をはじめ、たくさんの方からご恩を受けて育った。しかし、そのご恩返しをしようとしても、その人たちはもうこの世にはいない。だから「自分が受けた恩のご恩返しとして今、生きている他人に情けをかける」ということが、必要になるのである。これには納得した。では、以下に全文を紹介する。

「受けた恩の恩返し」
若い頃から多くの方々のお世話になった。そんなみなさんのおかげで、いまの自分がある。ようやく恩返しが出来るようになりかけた頃、その恩人たちは一人、二人と先に逝く。まだ、なにも恩返しらしい恩返しなど出来ていないのに、心ならずも見送ることになる。父や母や先生たち…。申し訳ないばかりである。

人は自分が受けた恩と同じだけのものを、その恩人に返すことは出来ない。だからこそ、自分のあとに続く人たちに、自分が受けた万分の一でも、恩返しのお世話をする。いや、お世話をさせていただくのである。人のお世話の見返りなど求めない。求められない。自分も又、見返りを求められなかった恩の、恩返しなのであるから。

ことわざに「情けは人の為ならず」というのがある。最近の若い人は、これを誤用していると聞く(文化庁の調査データ)。情けは人の為ならずとは、「人に情けをかけるとそれがめぐりめぐって自分のためにもなる」というほどの意味だが、「情けをかけるのは、かえってその人のためにならない」と理解している人が半数もいるというのだ。

人間関係が希薄になりつつある現代社会らしい理解の仕方なのかもしれないが、いまの世の中、なんだか、いろいろ世知辛い。「情けは人の為ならず」とは、「受けた恩の恩返しで人に情けをかける」とするなら、人と人との絆はもっと優しく、もっと深くなるのではなかろうか。

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書き下ろし第3弾…「恩返し」について考えてみた。あまり深い話ではないが、私自身の心情である。
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田中利典師の「賢者は未来を計る」(書き下ろしエッセイ その2.)

2025年04月08日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈愚者は常に過去を怨み、賢者は常に未来を計る〉(師のブログ 2019.2.1 付)。利典師は、毎日新聞から連載の依頼を受け、6編のエッセイを書き下ろされた。しかしその企画がボツになったので、師はご自身のブログとFBに、それらを掲載された。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜(コロナ禍の2020.3.30 撮影)

過去にブログなどに紹介された「今日の一言」からお気に入りの言葉を選び、文章を起こすという趣向だ。今回はその第2弾である。以下に全文を紹介する。

「愚者は常に過去を怨み、賢者は常に未来を計る」
人生の答えは過去にはない。人生の答えは未来にこそある。私はそう思っている。しかし人間は往々にして、その答えを過去に求めがちである。

「あのときこうしておけば」「あんな人に出会わなければ」「あの事故さえなければ」…などなど、過去に起こった出来事や後悔に、いつまでも思い煩うのが人間の性(さが)と言える。

そこには、元には戻らない現実の答えを、過去に探そうとする愚者の姿を見る。しかし、過去に答えはないのだ。過ぎ去った事象は、どんなに思いを馳せようと、どんなに恨みを込めようと、取り替えることはできないし、過去に戻ってやり直すことなど出来ないのである。

逆に、答えは未来にはたくさんある。未来はいろんな可能性と多くの答えに満ち満ちている。過去の失敗から立ち上がり、あらたな自分を見いだす機会はいくらでも用意されているのである。

障害者スポーツで活躍する選手を見ていると、本当に勇気づけられる。足を亡くした少女がいた。きっと大きな大きな不幸に心は砕けたことだろう。しかしその悲しみの底から、いまの自分が出来ることを見つけ出し、不幸な過去を振り払うかのように、けなげに戦うその姿。

まさに過去を怨まず、自分の未来を計ろうとする、賢者そのものである。過去に答えを探そうとする人間の性を乗り越えて、未来に答えを作り出す賢者でありたいと、私も願うものである。

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昨日に続いて、某紙のために書き下ろした文章です。没になったので、未発表です。実は長年書いてきた「今日の一言」というつぶやきの中で気に入った言葉を元に、文章を起こしてみたという試しの作品。まだいくつか書きためています。よろしくければどうぞ。
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