今日の「田中利典師曰く」は、〈怒りは不幸を招き入れ、笑いは幸せを呼びこむ〉(師のブログ 2019.2.16 付)。利典師は新聞から連載の依頼を受け、6編のエッセイを書き下ろされた。しかしその企画がボツになったので、師はご自身のブログとFBに、それらを掲載された。今日は、その最終回である。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜(コロナ禍の2020.3.30 撮影)
師は〈和やかな笑顔と、思いやりのある話し方で人に接すること。「和顔愛語」は布施であり、布施ある生き方をすることでもある。そうすれば幸せを呼び込む「笑い」の種を蒔くことになる〉とお書きである。
これは大事なことだ。よくお店などで、店員に怒鳴り散らしている老爺がいるが、少しは「和顔愛語」を心がけてほしいものだ。では、記事全文を紹介する。
「怒りは不幸を招き入れ、笑いは幸せを呼びこむ」
「笑う門には福来たる」という。至極当たり前の話である。笑っていると福徳が集まってきて、自分も幸せになるし、周りも幸せに感じる。反対に、怒ってばかりいる人の周りには幸せは訪れにくい。怒っている本人も幸せにはならない。機嫌が悪いから怒るのだし、怒ればなおさら機嫌は悪くなる。
仏教では「和顔(わげん)愛語」という言葉がある。布施を表す言葉である。布施は梵語でダーナという。人に施すというほどの意味であるが、その施しには「財施」「法施」「無畏施」の三種があり、その他に財物を損なわない七つの布施として、「無財の七施」が説かれる。
お金のかからない布施である。その「無財の七施」のうち、「和顔悦色施」と「言辞施」を合わせたものが「和顔愛語」である。すなわち、和やかな笑顔と、思いやりのある話し方で人に接すること。「和顔愛語」は布施であり、布施ある生き方をすることでもある。そうすれば幸せを呼び込む「笑い」の種を蒔くことになるのである。
といいつつ、私は若い頃から、普段の顔が怖いといわれてきた。「和顔愛語」にはほど遠くて、しかめっつらの不機嫌顔だったのである。ときどき「なんでそんなに怒っているの」と言われたこともあるが、「ほっといて頂戴。私の顔はもともとこんな顔」とうそぶく始末だった。
ただ近頃は心がけて、笑顔で生きている。「笑う門には福来たる」のは明白だから、努力してでも、「福来たる」顔にしないと損だと、ようやく気がついたからである。
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書き下ろし第6弾ということになりましょうか?まあ、気楽に書かせていただきます。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜(コロナ禍の2020.3.30 撮影)
師は〈和やかな笑顔と、思いやりのある話し方で人に接すること。「和顔愛語」は布施であり、布施ある生き方をすることでもある。そうすれば幸せを呼び込む「笑い」の種を蒔くことになる〉とお書きである。
これは大事なことだ。よくお店などで、店員に怒鳴り散らしている老爺がいるが、少しは「和顔愛語」を心がけてほしいものだ。では、記事全文を紹介する。
「怒りは不幸を招き入れ、笑いは幸せを呼びこむ」
「笑う門には福来たる」という。至極当たり前の話である。笑っていると福徳が集まってきて、自分も幸せになるし、周りも幸せに感じる。反対に、怒ってばかりいる人の周りには幸せは訪れにくい。怒っている本人も幸せにはならない。機嫌が悪いから怒るのだし、怒ればなおさら機嫌は悪くなる。
仏教では「和顔(わげん)愛語」という言葉がある。布施を表す言葉である。布施は梵語でダーナという。人に施すというほどの意味であるが、その施しには「財施」「法施」「無畏施」の三種があり、その他に財物を損なわない七つの布施として、「無財の七施」が説かれる。
お金のかからない布施である。その「無財の七施」のうち、「和顔悦色施」と「言辞施」を合わせたものが「和顔愛語」である。すなわち、和やかな笑顔と、思いやりのある話し方で人に接すること。「和顔愛語」は布施であり、布施ある生き方をすることでもある。そうすれば幸せを呼び込む「笑い」の種を蒔くことになるのである。
といいつつ、私は若い頃から、普段の顔が怖いといわれてきた。「和顔愛語」にはほど遠くて、しかめっつらの不機嫌顔だったのである。ときどき「なんでそんなに怒っているの」と言われたこともあるが、「ほっといて頂戴。私の顔はもともとこんな顔」とうそぶく始末だった。
ただ近頃は心がけて、笑顔で生きている。「笑う門には福来たる」のは明白だから、努力してでも、「福来たる」顔にしないと損だと、ようやく気がついたからである。
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書き下ろし第6弾ということになりましょうか?まあ、気楽に書かせていただきます。