てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ファゴットの女神(2)

2013年10月09日 | その他の随想


 ところでファゴットといっても、一般の人はどの程度認識しているものなのか、よくわからない。

 音楽雑誌などに載っている求人広告を見ると、ヴィオラとファゴットの奏者に欠員が出たので募集している、というケースが割と眼につく。どちらもオーケストラには欠かせない楽器であるのに、あまり弾き手がいない、ということだろう。ヴィオラに関しては、ヴァイオリンから転向する人が(あるいは両方ともに演奏する人が)多いような気がするが、ファゴットをやっている人は、何がきっかけでこの楽器をはじめることになったのか興味がなくもない。

 実はファゴットは、バロックの時代から盛んに使われている古い楽器なのだ。歴史としては、フルートやクラリネットのほうがよほど新しいといえる。しかしファゴットは、長いあいだ日の当たらない道を歩きつづけることを余儀なくされてきた。あくまで裏方として使用されることが多く、ファゴットのソロと聴いてまず頭に浮かぶのは、およそファゴットらしからぬ高音域で奏でられる、ストラヴィンスキーの『春の祭典』の冒頭だったりする。

 もしファゴットの独奏者として身を立てようと思っても、他の木管楽器に比べてレパートリーは呆れるほど少ない。これでは開店休業状態になってしまうからか、たいていの名手はオーケストラに在籍しながら、必要に応じてソロや室内楽の活動をおこなっているのではなかろうか。

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 そんな閉塞状況に風穴を開けるべく、颯爽と登場してきたのが小山莉絵だ、とぼくには思われた。

 彼女は、まだドイツの音大にかよう若き学生である。けれども、舞台袖からその姿をあらわしただけで、ホールの観衆の注目を一身に集めてしまう磁力のようなものをもっていた。とはいっても、特別に派手なかっこうをしていたわけではなく、ただ長いファゴットを抱えて歩くさまが珍しかっただけかもしれない。指揮者とほとんど身長が変わらないぐらいに見えるほど、大柄なように見えた。

 にこやかな笑みが、オーケストラの序奏とともに消え、頭のなかで音楽の進行を追いかけているかのような、何かに没頭した表情になる。首をかすかに上下させて、リズムを刻んでいるようだ。指揮者とのアイコンタクトは、ほとんどとらない。

 ファゴットの音色は、もちろん地味で、低いものだが、生命力にみちていた。絶え間なく躍動し、低音を震わせたかと思うと、早いパッセージを流麗にこなす。これはもちろん、モーツァルトの他の作品にも要求されるものだろうが、ファゴットでそれをやってのけるのは、ひときわ難しいにちがいない。一見すると鈍重な力士が、ちょこまかと動いて勝ちを制し、喝采を浴びるようなものだろうか(女性にとっては失礼なたとえだが)。

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 協奏曲のあと、アンコールとして、『ヴァネツィアの謝肉祭』が演奏された。これはフルートの超絶技巧を誇示するナンバーのようになっていて、ときにトランペットなどで奏されることもあるようだが、まさかファゴットで吹くとは・・・。

 ときに中腰になり、体を激しく動かしながら、高速のタンギングを繰り出す。オーケストラの楽器を知り尽くしていたモーリス・ラヴェルが、かの有名な『ボレロ』のなかで、細かいリズムを刻むために二本のファゴットで分担して吹かせる指示をしているが、小山莉絵の巧みな演奏を聴いているとそんな配慮は無用だったのではないかと思えてくる。

 ブラヴォーの声こそかからなかったが、聴衆の熱狂ぶりは相当なものだった。日本のオーケストラでは、珍しいことだ。楽器がいささかマイナーなこともあって、彼女の知名度はまだまだかもしれないが、必ずや近い将来、ファッゴットの固定観念を覆すほどの活躍をしてくれるのではないかと期待したくなった。

(了)

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