てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

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2012年12月14日 | 美術随想

オラース・ヴェルネ『死の天使』(1851年)

 オラース・ヴェルネの描いた絵はどこかで観たことがあったかどうか、記憶にない。けれども『死の天使』の一作で、おそらくは二度と忘れられない画家となりそうな気がした。

 まるで銀河系のような上空から、ひと筋の光が降ってくる。それは日の光でも月の光でも、もちろんろうそくの光でもなく、天国から射し込んでくる聖なる光だ。

 美しい金髪の娘が、今しもその天に召されようと体がふわりと浮いた瞬間。いや、浮いたのではない。彼女の背後では、頭からすっぽりと布をかぶった怪しげな人物が、彼女の腰を抱えてそっと引き上げようとしているではないか。背中には、猛禽類のような見事な羽根が生えている。彼(?)こそが、死の天使なのであろう。

 人間の昇天を描いた絵にはさまざまなものがあるけれど、なかでも有名なのは「聖母被昇天」の図柄だ。しかしその場合、マリアは多くの幼い天使たちに取り巻かれるようにして、賑やかに天に昇って行く。彼女自身も無重力状態に置かれたみたいに、風船が上空へ浮遊するのと同じような自然さで、天国へ向かうのである。

 だが『死の天使』は、もっと生々しい。残酷だといってもいい。夢見るような死に顔の乙女が天に昇って行こうとしているのだが、その実、裏方のような不気味な黒衣の天使が「どっこいしょ」とばかりに持ち上げているのであるから。

                    ***

 手前で一心に祈りを捧げている男は、そのことにはまったく気付いていない。ベッドの横にはイコンが掲げられ、聖書が開かれている。しかし祈りは通じることはなかった。彼が眼を離しているうちに、彼女は死んでしまった。

 この絵は、いわゆる宗教画とは異なる。いや、多分に非宗教的ですらある。神への祈りが届かず、はかない命は無残にも地上からもぎ取られて行こうとしている。天上界と地上界との絶望的な断絶こそが、この絵の主題であるといってもいいほどだ。

 救いとなるのは、やはり娘の清らかな表情であろう。彼女は眠っているようでもあるし、地上に取り残されて行く男の方をかすかに見やっているようでもある。そしてその白く透き通るような手は、天の光が降ってくる方向をたしかに指さしている。かつてダ・ヴィンチの描いたヨハネが、神のいますところを指で示していたように。


参考画像:レオナルド・ダ・ヴィンチ『洗礼者ヨハネ』(1513-1516年頃、ルーヴル美術館蔵)

 この絵が描かれる数年前に、ヴェルネ自身が娘をなくしているという。そのことが、この絵と関連しているかどうかはよくわからない。

 しかし、祈りつづける男の肩に温かそうなコートをかけてやったところが、最愛の娘を亡くした者の悲哀をよく知る画家の心遣いではないか、という気はするのである。

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