
『モンマルトルのテルトル広場』(1932年頃、個人蔵)
ユトリロの家庭環境は、極めて複雑である。いわゆる「昼ドラ」なんかも、しっぽを巻いて退散するだろう。これではアルコールに逃げ場を求めたくなるのも仕方がないかもしれないと、酒が飲めないぼくでも思う。
前にもどこかで書いたことがあるかもしれないが、ユトリロの母親はシュザンヌ・ヴァラドンといった。ルノワールやドガに気に入られたモデルであり、のちにみずからも絵筆をとることになる。女性としてはすこぶる奔放な生活を送ったといわれ、ユトリロが誰とのあいだの子供かも判明していないそうだ。
ところで19世紀後半から20世紀、美術や音楽や舞踊などさまざまなジャンルが花開いたパリは、現代の芸術へとつながる布石となった重要な時代であったが、その一方でお気軽な男女関係が沸騰する泡のごとく噴出したであろうことも想像にかたくない。
そういったことは歴史の表舞台には出てこないが、たとえばロートレックやモディリアーニやローランサンが貞操観念を重んじていたとはとても思えないし、いってみれば性的なモラルが解放されることで、おのおのの創作意欲が駆り立てられるということもあったにちがいない。各自の具体的なことは知りようがないが、当時の人たちは信じられないほどタフだったのだなと思うと、ため息が出るほどである。その極端な例が、かのパブロ・ピカソということになろう。
ユトリロも、そういった時代の落とし子として、生まれるべくして生まれたというべきかもしれない。ただ、本人がそのことをどう思っていたかは、彼の絵を観ていてもさっぱりわからない。『モンマルトルのテルトル広場』も、まるで乱痴気騒ぎがすんだあとの、変にひと気のない朝の光景みたいに見えるばかりである。
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『パリのノートル=ダム大聖堂』(1929年頃、個人蔵)
母親のシュザンヌ・ヴァラドンは、ユトリロの友人で、なおかつユトリロよりも若い男に恋をし、結婚をする。まったく作風の異なる画家どうしの母と子、そしていちばん年の若い義父・・・こんな奇妙な環境のなかで、ユトリロはほとんど強制的に絵を描かされる。
もちろん、アルコール依存症だったユトリロに、そんな状況を抜け出す知恵があるはずもない。20世紀の画家というのは、宮廷や貴族から絵の注文を受けていた古い時代とはちがって、自分の自由意志で好きなものを描くことができた、とぼくたちは思い込んでいる。けれどもユトリロに関しては、必ずしもそうとはいえないようだ。彼は鉄格子のはまったアトリエに閉じ込められ、外出も許されないままに、ひたすら絵を描くことを求められたという。
これは、ほとんど虐待といってもいいように思える。しかしそうやって描かれた絵が高く売れ、彼らの歪んだ生活を豊かにさせていった。今、世界中の美術館にユトリロの絵が収蔵され、日本でもこうやってたびたび展覧会が開かれるのも、ユトリロが馬車馬のようにして絵を描きつづけたからにほかならない。そう考えると、ヴァラドン夫妻の仕打ちを糾弾する矛先も鈍るということになる。ぼくたちは何とも割り切れない気持ちで、ユトリロの絵の前にたたずむしかないのだろうか。
パリを描きつつも、実際にパリの街を歩くことのままならないユトリロは、絵はがきに頼らざるを得なくなった。『パリのノートル=ダム大聖堂』は、建物を真っ正面からとらえた何のひねりもない構図で描かれていて、いかにも“絵はがき的”だという感じがする。試みに、最近撮影された写真と比べてみても、ほとんど狂いがない。
そして、かつては彼の作風を決定づけていた厚塗りのマチエールが姿を消している。この大聖堂は石でできているはずだが、そんな質感はどこにもない。もちろん、絵はがきを参考にしながら石造りの重厚感を醸し出すことなど不可能だろう。
評論家の中村隆夫は、7年前に開かれたユトリロ展の図録のなかで、「ユトリロにとって絵画を制作することは、ある時期まで自らの魂の救済と同義だったのではないだろうか。」と書いている。実際、ユトリロは意外なほど信仰の厚い人物だったようだ。だがぼくは、絵はがきを通して見た聖堂や教会ぐらいで彼の心が満たされるはずもない、という気がする。
彼が酒を手放せなかった理由は、ここにもあったのだ。ほんのちょっと傾いて見える大聖堂が、そのことを物語っている。
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