さて、ぼくが改めて菊池契月のことを書こうなどと思ったのは、京都の美術館に貼り出されていたポスターを見たからであった。そこには契月の少女像のひとつ、そのものズバリ『少女』という題名の絵が大きく印刷されていた。そればかりか、同じデザインのチラシがたくさん置かれてさえいたのだ。
いよいよ契月の展覧会をやってくれるのか、やれうれしやと思い、近づいてチラシを手にとってみると、それは京都ではなく長野で開かれる展覧会の告知なのだった。契月の没後50年を記念して、彼の生誕の地である長野で“里帰り展”が開催されるというのである(正確には昨年が契月の没後50年目にあたる)。
年が前後するが、この『少女』は『友禅の少女』の前の年に描かれたものだ。しかし、こちらのほうがやや大人びて見えるような気もする。彼女たちのモデルはすべて同一人物ではないかと、ぼくは先に書いたが、もしそうでない可能性があるとすれば、『少女』のモデルはほんの少しだけ年かさであるかもしれないとも思う。だが女性は往々にして、着ているものや髪形、化粧の仕方ひとつで別人のように見えてしまうこともあるから、そのへんは何ともいえない。
*
初めて『少女』を観たのはいつのことだか覚えていないが、ぼくはとにかく、ある感銘にうたれたものである。大きなくくりではもちろん“美人画”に属する絵だが、この少女は男の意味ありげな視線に玩弄されるだけの存在ではない。彼女は、背景も小道具も何ひとつ描かれていない空間に、淡い色の着物をまとい長い髪を後ろに垂らした姿で、膝をかかえるようにしてひとり座っている。いわゆる体育座り(三角座り)に似たポーズだが、その姿は意外なほど伸びやかで、若々しい弾力を秘めているかのようだ。
契月は少女の体を横から描いているが、顔だけはこちらのほうを向いている。それは非常に整った、凛とした、しかし決して冷たくはない表情である。だが『友禅の少女』と同じように、彼女と目が合うことはない。にもかかわらず、ぼくは彼女の目に射すくめられたように感じ、思わず立ち止まってしまう。少女の端整な容姿に見入りながら、同時にこちらも見られているという気が強くするのである。
少女はいったい誰なのか、今どこにいるのか、説明的な要素はいっさい省かれている。しかし、そんな説明を誰が必要とするだろう? 彼女の正体がわかったところで、どうなるというのだろう? そういいたくなるほど、この少女の存在そのものが圧倒的な求心力でぼくをつかまえるのだ。
そしてぼくはたちまち、彼女の前から身を隠したいという欲求にとらわれる。なぜなら彼女が見ている前で、次第にぼくの下劣さが覆いようもなくあぶり出されてくるような気がするからだ。それこそ白魚のように美しい指をもち、清潔そうな素足をすらりと伸ばした、純潔そのもののような少女と、下等な欲望や欺瞞の渦巻く現実社会を這いずりまわって生きてきたこの不甲斐ない男とが、対等に向き合えるわけはない。ぼくは少女の前に立ちつづけるのが恥ずかしくもあり、彼女の姿をいつまでも仰ぎ見ていたくもあり、複雑に引き裂かれた心境をいだいたまま、その場にたたずむほかないのである。
*
この翌々年に描かれた『散策』。早春とおぼしき郊外を、少女が2匹の犬を連れて散歩している。前髪は真っ直ぐ切りそろえられ、後ろ髪がそよ風になびいて揺れる。着物はよそいきのものではなく、彼女が普段から身に着けているようなくだけたものだ。帯を高い位置に巻いて、素足に草履を突っかけたいでたちでさっそうと歩くこの少女は、『友禅の少女』でみられたような憂愁とは無縁である。
彼女は、人生をうまくすべり出すことができたのかもしれない。その視線は、何のこだわりもなく、素直にこちらに向けられている。道でたまたますれちがい、あいさつを交わしたときのように、ぼくたちも自然な気持ちで、彼女と初めて目を合わせることができるのだ。観ていてこんなにすがすがしい気分になれる絵というものを、ぼくはほかに知らないのである。
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いよいよ契月の展覧会をやってくれるのか、やれうれしやと思い、近づいてチラシを手にとってみると、それは京都ではなく長野で開かれる展覧会の告知なのだった。契月の没後50年を記念して、彼の生誕の地である長野で“里帰り展”が開催されるというのである(正確には昨年が契月の没後50年目にあたる)。
年が前後するが、この『少女』は『友禅の少女』の前の年に描かれたものだ。しかし、こちらのほうがやや大人びて見えるような気もする。彼女たちのモデルはすべて同一人物ではないかと、ぼくは先に書いたが、もしそうでない可能性があるとすれば、『少女』のモデルはほんの少しだけ年かさであるかもしれないとも思う。だが女性は往々にして、着ているものや髪形、化粧の仕方ひとつで別人のように見えてしまうこともあるから、そのへんは何ともいえない。
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初めて『少女』を観たのはいつのことだか覚えていないが、ぼくはとにかく、ある感銘にうたれたものである。大きなくくりではもちろん“美人画”に属する絵だが、この少女は男の意味ありげな視線に玩弄されるだけの存在ではない。彼女は、背景も小道具も何ひとつ描かれていない空間に、淡い色の着物をまとい長い髪を後ろに垂らした姿で、膝をかかえるようにしてひとり座っている。いわゆる体育座り(三角座り)に似たポーズだが、その姿は意外なほど伸びやかで、若々しい弾力を秘めているかのようだ。
契月は少女の体を横から描いているが、顔だけはこちらのほうを向いている。それは非常に整った、凛とした、しかし決して冷たくはない表情である。だが『友禅の少女』と同じように、彼女と目が合うことはない。にもかかわらず、ぼくは彼女の目に射すくめられたように感じ、思わず立ち止まってしまう。少女の端整な容姿に見入りながら、同時にこちらも見られているという気が強くするのである。
少女はいったい誰なのか、今どこにいるのか、説明的な要素はいっさい省かれている。しかし、そんな説明を誰が必要とするだろう? 彼女の正体がわかったところで、どうなるというのだろう? そういいたくなるほど、この少女の存在そのものが圧倒的な求心力でぼくをつかまえるのだ。
そしてぼくはたちまち、彼女の前から身を隠したいという欲求にとらわれる。なぜなら彼女が見ている前で、次第にぼくの下劣さが覆いようもなくあぶり出されてくるような気がするからだ。それこそ白魚のように美しい指をもち、清潔そうな素足をすらりと伸ばした、純潔そのもののような少女と、下等な欲望や欺瞞の渦巻く現実社会を這いずりまわって生きてきたこの不甲斐ない男とが、対等に向き合えるわけはない。ぼくは少女の前に立ちつづけるのが恥ずかしくもあり、彼女の姿をいつまでも仰ぎ見ていたくもあり、複雑に引き裂かれた心境をいだいたまま、その場にたたずむほかないのである。
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この翌々年に描かれた『散策』。早春とおぼしき郊外を、少女が2匹の犬を連れて散歩している。前髪は真っ直ぐ切りそろえられ、後ろ髪がそよ風になびいて揺れる。着物はよそいきのものではなく、彼女が普段から身に着けているようなくだけたものだ。帯を高い位置に巻いて、素足に草履を突っかけたいでたちでさっそうと歩くこの少女は、『友禅の少女』でみられたような憂愁とは無縁である。
彼女は、人生をうまくすべり出すことができたのかもしれない。その視線は、何のこだわりもなく、素直にこちらに向けられている。道でたまたますれちがい、あいさつを交わしたときのように、ぼくたちも自然な気持ちで、彼女と初めて目を合わせることができるのだ。観ていてこんなにすがすがしい気分になれる絵というものを、ぼくはほかに知らないのである。
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菊池契月はわたしの好きな画家の一人です。
テツ様にとってこの少女の正体?は謎なままの方がよい感じですね。
契月は彼女を実娘のように可愛がり、モデルにしたことで世界が広がっていったようです。
契月の『美人画』の多くは戦国時代の女人ですが、この『少女』は全くそれとは違いますね。
前者は上臈ではあるが、おもいものだったりある種の諦念を抱えている。
少女はそうではない。まるで早春のようです。
着物も可愛いです。(多分銘仙など)
描いている間、契月も楽しかったろうなと思いました。
ぼくは数年前に菊池家三代の芸術家たちの展覧会を観ただけで、契月の作品をまとめて観る機会にはまだめぐまれません。
ですからぼくの中では、いまだに契月は『少女』の画家だという印象が強いのです。
それにしてもこの絵は、世に数ある美人画の中でも屈指の一枚ではないかと、つくづく感じ入る次第です。