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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

絵筆が拓いたリアリズム ― 高橋由一小伝 ― (2)

2012年10月28日 | 美術随想

高橋由一『丁髷姿の自画像』(1866-67年頃、笠間日動美術館蔵)

 この絵を観て、画家の肖像だと思う人はほとんどいないにちがいない。どこにもそれを連想させるものは描かれていないからだ。しかもこれは、高橋由一の自画像だという。

 近代の自画像というと、自分が絵描きであるということを証明するかのようにパレットや絵筆を手に持ったり、キャンバスを絵の片隅に描き込んだりすることがよくある。ただし、これらはその人の“属性”であり、一種の肩書きにほかならない。いってみれば、絵のなかに名刺を描き込むようなものだ。

 ルネサンスの画家やベラスケスなどが集団肖像画のなかにみずからの姿を紛れ込ませるというようなこともよくあるが、それは一種の遊び心であると同時に、画家の地位の高さをそれとなく示す目的があるように思われる。たとえば、スペイン王室のお歴々に加えて自分をさりげなく描き入れてしまったゴヤが、その代表的なひとりであろう。

 だが、この『丁髷(ちょんまげ)姿の自画像』にみられるような強靭なまでの意志の力、何かに挑みかかっていくかのような凄みは、他の画家の自画像とは明らかに異なっている。

 時代はまさに慶応2、3年であり、明治へと移り変わる前夜だ。由一がこの髷を切り落とし、ざんぎり頭になる日も間近に迫っていた。彼はそれを予見していたのか、まるで旧時代の自分の姿を永遠にとどめるように、サムライ然としたおのれを描きとめたのかもしれない。

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 高橋由一が洋風の絵画に開眼したのは、ペリーの来航とほぼおなじころであったとされる。

 周知のように1853年(嘉永6年)、黒船に乗ったペリーが浦賀沖にあらわれ、幕府に開国を迫った。このころに彼らが携えてきた石版画の一部が、由一の眼に触れることになったのかもしれない。そのとき由一は、これまでの狩野派に代表されるような装飾性と様式美に彩られた絵画とはちがう、ものごとのありようを直接に伝えるリアリズムに出会った。

 それ以降、彼は西洋画の重要性を信じ、何とかしてテクニックを手に入れようと苦心する。今の日本にもよくある、安易に外国のものを真似しようという風潮とはまったくちがって、由一は西洋の写実技法が人々に伝達する情報の豊かさ、正確さを見抜いていた。それこそが、拓かれた国を作るために必要な技術だと信じていたのだ。彼は横浜にいたワーグマンという記者(画家であり、ポンチ絵も描いた)に入門し、江戸から歩いてかようほど熱心に絵を学んだと伝えられる。

 『丁髷姿の自画像』は、ちょうどそのころの由一の姿である。彼の眼つきは、明らかに未知なる展望を見据えている。しかし険しい顔つきは、希望に満ちているというよりも、自分が進むべき洋風の絵画へ至る道のりの困難さに思いを馳せ、思わず身が引き締まったところのように見えなくもない。

 いずれにせよ、この精悍な表情に、幕末の志士たちと同じぐらいの途方もない野望を読み取るのは、あながち間違っているとはいえないだろう。

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原田直次郎『高橋由一像』(1893年、東京藝術大学蔵)

 由一の弟子であった原田直次郎が描いた『高橋由一像』は、すでに60代半ばに達した師の姿をとらえている。由一が亡くなるのは、この翌年のことであった。

 時代はすでに明治であるから、由一の頭の上に丁髷はない。そのかわりに立派なあご髭をたくわえており、苦み走った表情は自分が駆け抜けてきた激動の日々を静かに振り返っているかのようでもある。

 ただ、洋画の技法という点においては、由一の自画像よりも弟子のほうがはるかに上回っているといわざるを得ない。それもそのはず、『丁髷姿の自画像』はまだワーグマンに手ほどきを受けはじめたばかりのころの作品で、ほとんど手探りで描かれたようなものだったからだ。あれから30年足らずで、日本人の洋画の技術はここまで進歩したのである。

 ただし、服装と背景がかなり簡略化されて描かれているように思えるのは、このとき由一が病床にあったからかもしれない。おそらく由一が元気であったならこのように自画像を描いたはずだ、という想像をしながら、原田は恩師の姿を描きとどめたのだろう。彼から伝授された、渾身の写実技法を使って。

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