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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

平安神宮の鳥居の近くに(2)

2013年06月05日 | 美術随想

〔「交差する表現」のチケット〕

 念のためことわっておきたいが、東京の近代美術館が工芸をないがしろにしているというわけではない。関東在住の方には今さら何を書くのかといわれてしまいそうだけれど、本館から歩いて数分のところに「工芸館」というのがあるようだ。

 とはいっても隣接しているわけではないので、絵画の企画展と常設展示を観た段階でおなかいっぱいになってしまうことの多いぼくは、まだ一度も足を運んだことはない。そこは旧陸軍の施設だったところで、赤レンガの瀟洒な外観が美しいらしく、せめて建物を眺めるだけでもと思っているのだが、まだ果たせないでいる。

 いくら東京国立近代美術館を熱心に観てまわっても、工芸品に出会うことができないのは、そういう“住み分け”ができているからなのだった。一方、京都の常設フロアではいつも洋画・日本画・写真・版画などが工芸とともに陳列され、よくいえば横断的だといえるが、わるくいえば“ごった煮”のような乱雑さが気にならないこともない。

 それというのも、絵画と工芸とでは、同じ美術とはいえども、観る者の感受性のどの部分を刺激するのかが微妙にちがうような気がするからだ。たとえば豊かな色彩を駆使した油彩画と、土の質感がむき出しになった焼物とは、同列に論じられるものではない。視覚にうったえるものと、触覚にうったえるもの、といいかえることもできるかもしれない。

 その点、あらゆる美術のジャンルがいっせいに展示される「日展」などは、正直にいうと少し困る。洋画や日本画部門の展示室から工芸美術部門へと移るとき、頭の切り換えがヘタクソなぼくは、多少のインターバルがほしいのだ。理想としては、いちど美術館の外に出て緑を眺め、深呼吸のひとつでもしてくるのがいい。けれどもそれは不可能なので ― 再入場は認められていないのだ ― 催してもいないのにトイレに入ったりして、気分転換をはかることにしている。

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二代 川島甚兵衛『悲母観音図綴織額(狩野芳崖 原画、東翠石 下図)』(1895年、東京国立博物館蔵)

 京都における開館50周年を祝う展覧会は、「交差する表現」と題されていた。ただ単に工芸のなかで閉じられた表現ではなく、他の分野へとつながる開かれた媒体としてとらえ直そうという意欲が明らかだ。

 その代表的なものとして、絵画をもとに制作された織物がある。ぼくもかつてゴヤが描いたタピスリーの下絵を観たことがあったが、今回は日本画の原画と、織り上げられた作品とが並べて展示されるという貴重な出会いが用意されていた。

 もととなった絵は、重要文化財ともなっている名画、狩野芳崖が最晩年に描いた『悲母観音』である。本当のところ、ぼくは現物の『悲母観音』が東京からやって来るという、そのことにもっとも興奮していたといっていい。

 この織物が織られたのは、絵が描かれてからたった7年後のことである。芳崖はすでに亡くなっていたが、この絵は織物の原画として描かれたわけではないのだから、現代の感覚だと少し時期尚早ではないかという気がしないでもない。だが、フランスに留学して経験を積んでいた川島甚兵衛は、新しく改良した綴織の技法を用いて『悲母観音』に取りかかり、仕上がった作品は内国勧業博覧会で受賞するなど、高く評価されたそうだ。

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狩野芳崖『悲母観音』(1888年、東京藝術大学蔵)

 ただこうやって比較してしまうと、ぼくにはやはり日本画のほうが魅力的に映る。それはもちろん好みの問題もあるが、そもそも素晴らしい肉筆の絵が存在するのに、織物がそれを超えられるわけがない、と思うのである。いや、川島甚兵衛は狩野芳崖を超えようとしたのではなく、その一見とらえがたい絵画世界を、どこまで織物の世界に持ち込むことができるかを試そうとしたのではなかろうか。

 『悲母観音』は有名な絵だが、仏画のようで仏画でなく、その場所は海のなかのようでもあり、はたまた宇宙のどこかのようでもあり、さらにいえば子宮の内部のようでもある。いわゆる琳派の装飾性からも、狩野派のたくましさからも離れた、何やら象徴的な絵だとしかいえない。古めかしい画題を用いながら、仏教の枠に収まらない独創性が、この絵にはあるように思う。

 川島は、もてる技量を総動員して、その異様な世界観を織物にぶつけた。それは大変な冒険であったはずだ。だいたい織物それ自体が、当初は飾りとして作られはじめたはずのものである。しかし、装飾を抜け出して鑑賞にたえるものを織り上げようとした川島甚兵衛の心意気は、立派なものだと思う。

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 川島の熱意は、現在の「川島織物セルコン」という企業に受け継がれていることだろう。近年では、祇園祭の南観音山に掛けられる装飾品が同社によって新調され(原画は加山又造)、京都の夏を鮮やかに彩っている。ぼくは毎年、雄渾な龍が描かれた“見送り”を眺めるのを楽しみにしているのである。

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