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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

メモリアル・ピカソ(6)

2007年03月16日 | 美術随想
『水浴の女』


 ほぼ等身大の ― というよりそれ以上の ― 荘厳なる裸婦像『水浴の女』を観て、ぼくは圧倒された。もう8年ほども前の、オランジュリー美術館展でのことである。

 これはピカソのいわゆる“新古典主義”の絵画のひとつだ。縦182センチのキャンバスの中で、ずっしりと腰をすえるこの女は、「青の時代」に描かれた華奢でみすぼらしい人物像とは正反対の、太くたくましい手足をしている。

 今までさまざまな裸婦の絵を観てきたが、『水浴の女』ほど威圧的で、重量感にみちみちた裸婦像には出会ったことがない。彼女はまるで記念碑のように、まことに鷹揚にかまえていて、ちょっとしたことには動じないだろう。乳房のふくらみを別にすれば、ほとんど男の肉体のようだ。肩幅はアメフトの選手ほどもあり、太ももは競輪選手ほどもある。

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 ピカソはあの革命的なキュビスム絵画のあとで、このような人物像に戻ってきた。その意味では“新古典主義”といわれるのも何となくわかる。しかしピカソが見据えていたのは、“古典”をはるかに超えた“原始”とでも呼ぶべきものではなかったか?

 時代の最先端であったキュビスムが“知的な遊び”だったとすれば、ピカソは方向を180度転換して、文字どおり現代に背を向け、人間が本能のままに生きていた遠い昔を回顧しているかのようである。そこには、20世紀における生命力の屈折した姿が浮かび上がってもくるようだ。彼はキュビスムという論理的な絵画運動に身を投じている間に、理屈にからめ取られることのどうしようもない窮屈さを感じたのではないだろうか。

 ピカソが長い人生にわたって、その知名度や社会的地位をも顧みず、奔放な恋愛へと ― そして肉体関係へと ― 没頭したのはよく知られている。それはしばしば、世人の眉をひそめさせるほどのものだったにちがいない。

 だが、見方を変えれば、彼の生き方は古代の英雄の生き方そのものに見える。現代という複雑な、鬱屈した時代の中で、ピカソほど率直に生命力を爆発させ得た人物は、他にいないのではなかろうか?

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 『海辺を走る二人の女』(下図、パリ・ピカソ美術館蔵)は、4年前に日本で公開されたことがあったが、関西には巡回しなかったため、ぼくは涙をのんで我慢した。実はこの絵は、ピカソの中でもっとも好きな絵のひとつだったのだ。



 地響きをさせながら、なりふりかまわず海岸を疾走する女たちの姿は、まことに迫力がある。ところがこの絵は意外と小さく、A3の紙を少し大きくしたくらいのものらしい。

 だが、そこに表現された歓喜する肉体、なんら目的をもたない生命のひたすらな躍動に、ぼくは強く心動かされる。それは、ぼく自身が現代に生きる鬱屈した人間だからにほかならない。ぼくは永久にピカソにはなれず、だからこそピカソの芸術に焦がれるのである。

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