てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

20世紀美術の展開図(6)

2009年06月15日 | 美術随想

ミロ『リズミカルな人々』(1934年)

 ジョアン・ミロは、ぼくがもっとも愛する画家のひとりである。過去の記事にも書いたことがあるが、ぼくを美術の世界へと引き入れてくれたのはミロであった。彼はそのときまだ生きており、まさに同時代の前衛芸術家の長老格だったが、まだ幼かったぼくの心に何のためらいもなく入り込んできて、いつの間にかどっかりと居座ってしまった。今でも暇さえあればさまざまな美術に接しているが、これほど理屈抜きでぼくをとりこにしてしまう作家には、残念ながら出会えない。

 最近の展覧会では必ずといっていいほど音声ガイドというのがあって、作品やその作者について説明をしてくれる。絵のキャプションの横にも長ったらしい解説が書かれていることが多い。このたびの展覧会も例外ではなかったが、何ものにも拘束されない自由なイマジネーションの発露として描かれたはずのシュルレアリスム絵画を、やはりしかつめらしく解題せずにいられないところが、皮肉といえば皮肉である(これは自戒を込めていっているのだが)。しかし本当は、頭で理屈をこね回すよりも ― この連載の最初に書いたように ― 五感を最大限に解放し、画家とともに色彩や形態の世界に遊ぶことこそが、いちばん理にかなっているのではなかろうか。

 ミロが少年時代のぼくの心へ飛び込んできたのも、やはり小難しい理屈をくぐり抜け、まるで音楽のように楽しく胸ときめかせる得体のしれない魔法として、ダイレクトに響いてきたからにちがいあるまい。ミロの絵を本質的に理解できるのは、子供なのかもしれない。

 『リズミカルな人々』は、まるで人格をもった音符がパレードしているかのような賑やかな画面である。人間らしいかたちは単純化され、記号化され、原始の生き生きした姿を取り戻す。ここには何が描かれているか、作者がどんな思いを込めたかということは、二の次でかまわない。この絵の前で心楽しくなり、思わず笑みがこぼれ落ちるようなら、ぼくたちは完全にミロの術中にはまっているのである。

                    ***


タンギー『不在の淑女』(1942年)

 イヴ・タンギーは、ミロとはちがった意味で好きな画家だ。子供のころ、家にあった24巻組の百科事典のカラー図版に、海底に沈殿している未来都市の遺跡のような謎めいた絵が載っていた。ひどく好奇心を惹かれつつ、底なしの不安をあおられもするそれは、ぼくにとって桃源郷のようでも悪い夢のようでもあった。ようやく大人になってから、その絵がタンギーという画家のものだとわかったのである。

 しかし、彼の絵と出会える機会は多くない。今回は2点ものタンギー作品が来ていて、それだけでも感無量だったが、特に『不在の淑女』がタンギーらしさを存分にあらわしていて興味深かった。ミロに比べれば、この絵ははるかに写実的である。光沢のある質感といい、斜めに落ちた影といい、まるで眼の前にあるかのようにリアルに感じられる。

 しかしそこに描かれている物体は、現実には存在しない何ものかだ。あり得ないものを、そこにあるように描く。これぞシュルレアリスムの王道であるとするならば、タンギーはダリと肩を並べるほどの名手だといえる。京都に生まれた麻田浩も、彼のDNAを受け継いでいるだろう。

 静止した時間のなかに、まるで記憶の堆積のようにそそり立つ異様な物体は、人類が滅んだあとの風景のようでもある。将来この地球が滅亡したとき、残されるのは人間どもの栄華の痕跡をとどめつつ朽ち果てていく廃墟ではないか。それは次第に風化しながら、われわれの意識下にひそんでいた欲望の骨組みを無残にさらけ出していく。タンギーが繰り返し描いた不思議な世界は、まるで何かを予言しているようにも思われる。これが真の「レアリスム」となったとき、すでにこの世は終わっているのである。

つづく
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