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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

20世紀美術の展開図(5)

2009年06月14日 | 美術随想

カッラ『西から来た少女』(1919年)

 シュルレアリスムとは、超現実主義とも訳される。今では日常会話でもよく使われる「シュール」という言葉は、ここに語源をもっているらしい。だがシュルレアリスムの絵画と、いわゆる「シュール」なものごととは、大きな隔たりがあるように思われる。

 シュルレアリスムの画家たちにとって「現実」とは、眼に見えるものを自明のこととして描く写実風の絵画世界と直結していたはずである。西洋美術の代表的な技法である「遠近法」は、二次元のキャンバス上に三次元のイメージを出現させる合理的な手段であった。けれどもそれは完璧なまでに合理的であるがゆえに、かえってウソくさいような、どこか現実離れした気配がただようこともたしかだ。

 正確に再現された架空の「現実」。それを疑うことから、シュルレアリストたちの美術運動ははじまったにちがいない。人間の眼はカメラではないのだから、さまざまな錯覚が起こり得るし、勘ちがいもあり得る。そこにこそ、絵画の未知なる地平を見いだしたのだ。彼らはキュビスムとは異なったやり方で、人間の視覚を乗り越えようとしたのである。

 たとえばカルロ・カッラという画家がいた。この人物についてぼくはほとんど何も知らなかったが、インターネットを駆使して画像をあさってみると、あまりにも作風のちがう絵が次々と出てきたので困惑してしまった。あるものはピカソ風であり、あるものはボッチョーニの作品とあまりにも露骨な近似を示している。またあるものは、素朴派の絵画といった感じである。そして上の絵でもわかるように、ときにはデ・キリコの分身のような絵を描いている。事実、彼はボッチョーニともキリコとも面識があり、彼らの影響を安易に受けてしまう一方で、自分固有の絵というものをついに見つけることができなかった、いつの世にもいちばんありふれたタイプの画家だったのだろう。

 しかしひとつだけいえることは、ここではかなり極端に歪められた遠近法が用いられているということである。少女とはいうものの、まるで2メートル近い巨人のように見えなくもない。

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エルンスト『揺らぐ女』(1923年)

 マックス・エルンストも、しきりに画風を変転させた画家である。

 エルンストの作品はすでに何枚も観てきているはずだし、京都国立近代美術館には常に彼の荒々しい絵が一枚掛けられているが、何をもって“エルンストらしい絵”と呼んだらいいのか、ぼくはいまだにわからない。ときには近未来的な象の化け物を描いたかと思うと、静かに月光を浴びてたたずむ深い森を描いたりもする。木の葉に紙をのせて葉脈の模様をこすり出す「フロッタージュ」もエルンストが考えた技法だが、それは小学校の授業でやらされた覚えがある(図工ではなく、理科の授業だったような気がする)。

 『揺らぐ女』は、そんなぼくのエルンスト観から大きく隔たった作品だった。何しろ、カッラに負けないぐらいにデ・キリコの影響が濃厚なのである。画面の左右に描かれている謎めいた円柱など、『西から来た少女』における左のポールと右の建造物との位置関係をそのままなぞったかのようだ。

 ただ、ここに描かれているメイドのエプロンのようなものを着けた女は、足もとの機械状のものとともに、ある雑誌に掲載されたイメージをそのまま引用したものであるという。シュルレアリスムのスローガンのようになった「手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い」を地で行くごとく、なんら関係性のないふたつのものを絵のなかで融合させたのだ。いいかえれば、絵の具で描いたコラージュとも呼ぶべきものである。

 だが当時のシュルレアリストたちがそうであったように、このような世界に美を見いだすことは、現代では難しくなっているのではなかろうか。というのも、われわれの普段の生活がすでにコラージュのようなものであるからだ。誰かが書いていたと思うが、今の日本人というのは家で茶漬けを食べながらイタリアオペラをテレビで鑑賞することのできる人種である。この例を、ハンバーガーをかじりながら韓流ドラマを見ること、といいかえても同じことだ。

 国籍も思想もバラバラな、無関係なものがとりとめもなく散りばめられたなかに、現代人は生きていかざるを得ない。80年あまりも前の芸術家たちが「シュール」だと思って描いた世界が、今では正真正銘の「現実」になろうとしているのかもしれない。

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マグリット『出会い』(1926年)

 マグリットは、シュルレアリスム的な発想のうえに、さらにひねりを加えた絵を描いてみせる。そこには、シュールな世界を意図的に構築してやろうという強い意志が感じられる。

 先日、20年ほど前に制作された長編アニメを見る機会があった。そこに思いがけず、鏡面世界なるものが登場したのでぼくは驚かされた。パラレルワールドという発想はSFのなかでよく見かけるが、鏡面世界はそれとは少しちがい、鏡をくぐって反対側の世界に出ると、現実とは左右が逆になった世界がどこまでも広がっているというものである。

 マグリットの『出会い』に描かれている中央のゲートのようなものは、まさに鏡面世界への入口のような気がした。しかしそこには、向こう側の住人(?)の姿が迫ってきている。彼らにとってみれば、こちら側こそが鏡面世界かもしれないのだ。両者は相対峙し、青い瞳で見つめ合う。そこには一触即発のピリピリした緊張感がただよっているようにも思えるし、ただ単に“傍観者”に徹しているような呑気さもある。

 マグリットの絵は、それ以上を語ろうとはしない。ただ、絵の前に立つわれわれ自身が鏡面世界に投げ込まれてしまい、右往左往するのを楽しんでいるのだろう。マグリットは、絵画と現実をひっくり返してしまった。

 そしてもうひとつ不思議なことは、ここに取り上げた3枚の絵に描かれた人物像が、まるでボウリングのピンにも似た奇妙な姿をしていることである。現実を超えようとするかわりに、彼らは素朴な人間性を次第に見失っていった。シュルレアリスムの画家たちにとって、純粋な肖像画というものはあり得なかったのだ。

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