てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ムナカタに囲まれて(3)

2013年10月19日 | 美術随想

棟方志功『阿修羅の柵』

 棟方志功が得意とした技法のひとつに、「裏彩色」というのがある。木版画はいうまでもなく、白と黒だけで表現するしかない。だが、紙の裏側から色を塗ることで、カラフルな作品に仕上げることができるのである。

 志功は最初、誰もが考えるように、版画の表側から彩色をしていた。まあ、塗り絵と同じ要領であろう。だが、やはり彼の奔放な性格からか、輪郭どおり丁寧に塗るというわけにはいかなかったのかもしれない。色が線を殺してしまっていることを見抜いた柳宗悦は、裏側から色を塗ることを提案したそうだ。

 以降、裏彩色の妙味が、志功作品を眺めるうえでの味わいのひとつとなっている。当然ながら、手で塗られる彩色は、一点一点少しずつちがうのだ。同じ顔をした人でも服を着替えると異なった印象を受けるように、同じ絵だとはわかっていても、新しい光が射すごとく、これまで気づいていなかった魅力が引き出されることがあるような気がする。

 あの棟方志功のことだから、裏彩色も猛スピードで塗られたものだろう。色の効果というものを、彼はどの程度認識していたのかわからないが、乏しい視力で一気呵成に仕上げられた作品が、奇跡のように美しい色合いをなしていることが信じがたい。

                    ***

 『阿修羅の柵』は、以前から画集などでよく親しんできた板画だった。描かれているモチーフは、かつて大ブームを起こした興福寺の阿修羅像と同じだ。ここでも顔が三つ、眼も三つ、そして六本の腕をもつ異形の姿である。

 けれども神秘的に、静かに佇立していた例の阿修羅像とは、雰囲気がかなり異なる。この阿修羅は、大きく後ろ足を跳ね上げて、全速力で疾走しているのだ。律儀にすべての腕を握りしめてジョギングのようなポーズをとっているところが、何ともいえずおかしい。

 そして一色のみの裏彩色が、阿修羅が風を切って走るさまを強調するように、斜めにさっと塗られている。そこでどうしても思い出してしまうのが、ほかでもない、漫画だ。棟方志功が漫画を知っていたとは思えないが、よく観ると阿修羅の顔のひとつひとつも、少年漫画のような純朴さを残している。

 志功自身の飾り気のなさが、こういった無邪気な表現を生んだのかもしれない。

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