てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

都市と文化、デトロイトの場合(2)

2016年09月03日 | 美術随想

ピエール・オーギュスト・ルノワール『白い服の道化師』(1901-1902年)

 最初に迎えてくれたのは、ルノワールの絵であった。今年は京都でもルノワールの展覧会が開かれたほか、東京や名古屋にまで作品を観に行ったこともあったので、ルノワールのことを考える機会が多い。いや、実は考えることなど何もなく、ただ純粋に彼の絵を楽しめばいいのかもしれないが・・・。

 だいたい、印象派の存在自体、そういった頭でっかちの鑑賞法に異議を唱えているといえる。それまでの西洋絵画において重要とされてきたキリスト教の知識、文学的な教養、歴史上のできごとなど、高尚なモチーフが尊ばれてきた世界から、印象派の画家たちは我々が生活する日常の次元へと一気に近づけてみせたのだ。要するに“眼に見えるもの”こそが絵画にとっては重要で、知的なウンチクなどは邪魔者にすぎない、ということだろう。

 しかし、展覧会では作品の横に“解説”をつけるのが(少なくともこの国では)常識となっているし、図録を買えば、もっと長文の説明書きが載っている。たった一枚の絵にこれだけの説明がいるのか、と疑問に思うこともなくはない。ちなみにぼくが今書いているのは説明ではなく、あくまで感想なので、ご容赦願いたい。

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 『白い服の道化師』のモデルになったのは、画家の次男であるジャン・ルノワールだという。ジャンはのちに映画監督の巨匠となったことはよく知られているし、東京のルノワール展の会場でもジャンの映画の一部分がずっと流されていた。

 ぼくはほとんど映画を観ない人間なので、ジャンの監督した映画を通して鑑賞したことは一度もない。ただ、光や色彩への感受性といったものは、父から息子へ受け継がれているのかもしれないとは思う。絵画から写真を経て映画へ、という一連の流れは、もちろんテクノロジーの進化にのっとったものだ。けれども、父ルノワールがもう少し後に生まれていたら、ひょっとすると映画の仕事をしていたのではないか、とは思わない。

 印象派のもう一方の雄、かのクロード・モネは、時間が変化するにつれてキャンバスを何枚も置き換え、いわば絵画を映画に近づけるようなことをした。これはきたるべき技術の進歩を見越した行為と思えなくもない。だが、ルノワールの作品からは、そういった時間の経過を感じさせられることはあまりないのである。

 ダブついた道化師の衣装をつけ、椅子に腰かけてポーズをとるジャンの姿は、大人っぽくも、子どもっぽくも見える。そこには、時間が混沌としたままに停滞しているような雰囲気があるのだ。そして、おそらくこのポーズのまま何時間も静止させられていた少年ジャンの苦痛を推し量ってみれば、彼が将来、“動く人間”を表現する仕事につくことになった心理も何となくわかるのである。

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ピエール・オーギュスト・ルノワール『座る浴女』(1903-1906年)

 やはりルノワールといえば女性像、しかも裸婦であろう。実はこれこそ、“キリスト教的”“歴史的”な古い絵画とおのれの新しい絵画を差別化する、もっとも重要な武器だったのだといっていい。

 かつての裸婦像は、主に神話のワンシーンとして“必要悪”的に描かれたものであり、表向きは、男性の欲情をそそるようなものであってはならなかった。けれどもルノワールの裸婦は、欲情とまではいわないまでも、観る者にある種の肉感的な感動を呼び起こすに足る性質を備えているといえる。端的にいえば、ルノワールは年を取ってからも、女性の素晴らしい肉体に対する賛辞を惜しまなかったのだ。

 なるほど、これほど堂々とした裸体を晒し、威厳すらも感じられるようなポーズをとられたら、男は黙って見とれているしかないというのだろうか。“知的絵画”との決別を果たした印象派の画家たちは、特にルノワールにおいて、無条件に女性の裸を崇めるという、現代では誰でもやっている行為への先鞭をつけたともいえるのである。

つづく
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