〔硬質な赤煉瓦の肌を柔らかな梢がくすぐる〕
水路閣のそばにたたずんでも、ゆっくり気を落ち着けるというような状況ではない。無数のにわかカメラマンが、紅葉に向かってわれがちにカメラを向ける。下手に動くと、他人のファインダーに入り込んでしまうだろう。今は何度でも撮り直しができるので、怒鳴られるようなことはないかもしれないけれど・・・。
ひときわ赤く染まったもみじの葉っぱを両手に持って、まるで踊りでも踊るように掲げた中年女性がいた。そのかっこうで写真におさまろうというのだろうが、ここまでくると紅葉狩りとはいえない。ぼくは早々に帰りたくなった。
ちなみに南禅寺のホームページには、こう書いてある。
《境内というのは仏様のお庭であり、そのお庭を少しでも美しく保つ為に、毎日職員や庭師が掃除をして手入れをしております。
その甲斐があってか、南禅寺を美しいと思い絵を描きたい、写真を撮りたいと思っていただけるのは本当にありがたいことです。》
そういうわりには、境内のなかにまで観光バスが何台も停まっていたのには仰天した。駐車場の余裕がなくなったのだろうか。バスのドアには「何時出発です」といった札が下がっている。フロントガラスには「ゆとりの京都めぐり」とか何とかいうコース名が。けれども、ゆとりがあるのはバスに残ってツアー客の帰りをぼんやりと待っている運転手だけではないのか、と陰口をたたきたくもなった。
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〔金地院の門から撮影。深紅の葉が秋の日に映える〕
さて家へ帰ろうにも、さっき大混雑していた参道を逆向きにたどるのかと思うと気持ちが萎える。バスの巨大なタイヤにおびえながら、今見たばかりの風景の美しさを心にとどめつづけるなど無理な話だ。だからみんな狂ったように写真を撮って帰るのかもしれない。“記念”という口実のもとに。
排気ガスと騒音から逃げるように参道を左へ折れ、金地院(こんちいん)の前へと出た。ここも南禅寺の塔頭だが、車は入ってくることができない。ただ、向こうからは徒歩の集団が続々と押しかけてくる。地下鉄を降りて南禅寺に向かうにはここが近道だからだが、金地院は紅葉の名所にカウントされていないせいか、ほとんどの人が素通りしていく(水野克比古氏の『京都紅葉案内』にも、金地院は載っていない)。
山門から中をのぞいてみると、受付の屋根に枝をさしかけるように、一本のもみじが素晴らしいくれない色に紅葉していた。人がほとんどいないからか、たった一本でも辺りの風景を赤く染めてしまうような激しさと、尊さがあった。もみじの木は、人から見られたいがために色づくわけではない。そんな当たり前のことを思い出させてくれるような眺めだった。
この寺を拝観するのは後日にして、ここでは誰に気兼ねすることもなく、紅葉の写真を撮らせてもらった。
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〔何有荘の敷地から見事な紅葉が顔を出す〕
もう少し先に行くと、左手に生垣がつづく場所に出る。いつもは何気なく通り過ぎてしまうのだが、生垣の上から燃えるような紅葉がのぞいているので、つい足を止めた。振り返ると、門の横に表札が出ている。
「何有荘」。ああ、ここだったのか、と思わず声に出してしまった。何有荘と書いて、「かいうそう」と読む。不思議な名前である。
少し前にNHKで、南禅寺界隈の知られざる別荘群を紹介する番組があった。そのなかに何有荘も出てきた。原則として非公開だそうだが、こんな見事な庭を公開しないのは実にもったいない話だと、ハイビジョンの美しい映像を見ながら思ったものだった。それが、この生垣の内側にあるのだ!
あとから調べてわかったのだが、何有荘は昨年、80億という高額で売りに出されたという。それを手に入れたのはアメリカ人実業家、正確にはソフトウェア会社の創業者で、かのスティーヴ・ジョブズの友人でもあったラリー・エリソンという人物だった。
京都の秘められた名庭園が、IT長者の所有物であるとは・・・。大勢の人が体をくっつけ合うようにして南禅寺の紅葉を写真に撮っているありさまは、彼の眼にはどのように映るのだろう。日本ではぐくまれた美の神髄を、青い眼の大富豪はどんな思いで見つめるのだろう。
書けば書くほど背筋が寒くなるような、奇妙な紅葉狩りであった。
(了)
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