てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

水上勉が遺したもの(3)

2005年10月23日 | 美術随想
 「若州一滴文庫」には、紙漉きの工房がある。それは水上勉が手ずから紙を漉くためにつくったものだった。福井で紙漉きというと、今立町(現在の越前市の一部)あたりの越前和紙が有名かもしれないが、彼の漉く紙はそれではない。竹の皮を煮て臼で搗き、水に溶いて漉くのである。「竹紙(ちくし)」というそうだ。

 《この竹紙は、私が、嘗(かつ)て、竹人形芝居をするときに、中国で見た和紙造りを模倣したことからはじまっていた。一滴文庫をはじめる時に、福建省で見た水車の話を信州の大工さんにして、水車をつくってもらって、漉き小屋もろとも十屯トラックで運んだのだった。若狭の人々は、それを見て笑った。私がそばやでもやるらしいと噂がとんだのである。その村で、竹の皮を拾いあつめ、餅にして、紙に漉くまで、ずいぶん苦労した。》(「竹紙本のこと」)

 さりげなく綴られた文章の中に、中国福建省と信州、そして若狭という3つの地名が、いとも無造作に出てくる。水車を紙漉き小屋ごとトラックで運ぶなど、なかなか豪快な話だ。小説家の“道楽”といわれればそうかもしれないが、こうして始めた竹紙作りが、晩年の水上勉のよき相棒となってくれたようである。


 水上勉の一周忌を迎えて、彼の息のかかった京都の3軒の画廊が同時に追悼展を開いた。そのうち2か所に出かけることができたが、どれも初めて訪れる画廊であった。水上は竹紙に絵を描き、短い文章を添えて、小学館の月刊誌「サライ」に連載していたのだが、その原画が展示されていたのである(それらは3冊の画文集にまとめられている)。ぼくはその雑誌を読んだことがなかったので、これが彼の絵画に触れる初めての機会にもなった。

 竹紙は一枚一枚ちがった質感を持っていた。色合いも多少ちがっているようだった。手漉きだから当然でもあろう。紙の端も、真っ直ぐ切り落とすことをせず、漉き上がったままの形に残されている。水上はそこに、自由気ままに絵を描いた。季節の風景や、旬の果物などを。彼の絵はもちろん素人の絵であり、決してうまいものではない。だが、ときにハッとさせられるような美しい色のきらめきを見せる。その骨太な筆致は力強く、芯がある。

 ざらざらした竹紙は、決して描きやすい紙ではないだろう。それは筆の動きに抵抗するだろう。絵の具と紙とのあいだに、摩擦が生じるだろう。その摩擦が、何ともいえない存在感をかもし出す。例えてみれば、樹木が風に吹かれてしなりながらも、それに抵抗してしっかりと大地に踏みとどまる、そんな姿である。


 紙も竹なら、描く筆も竹だ。水上はそれも自分の手でつくった。若竹の端を木槌で叩いてほぐし、筆にする。使い古した筆は、今度は竹紙の材料になる。漉き上げた紙に、また新しい竹の筆で絵を描く。大自然にも似た、途切れることのない連鎖がここにある。

 《竹の皮など拾う人は珍しくて、地に捨て置いて腐らせながら、機械漉きの西洋紙を尊重する現代にふと嫌気がさしたといえばきこえはいいだろうが、事実、竹紙漉きは地球を大切にしようと言い出した人々の説にもかなう気がするのである。だが私はちっともそんな大きなことを叫んだおぼえはない。生きていること自体がこの世を汚す仕組みを思うと厭世的になる仲間の一人である。だが、それでも竹の皮を拾って紙を漉いて其の紙に絵を描いていると、日々が愉快になってくる。おまえはいつぞや心筋梗塞で死にかけたが、一命を取りとめたときく。今お前さんに与えられた余生をどうして生きてゆくかときかれれば、地に捨てられている竹の皮をひろいあつめて紙を漉いて生きてゆきます、そうしてなるべく世の中を汚さないようにつとめますというしかない。つまり終の栖(すみか)の仕事にそれを選んだまでのことなのだ。》(「またまた、竹紙について」)

 まるで、落ち葉の中にうごめく一匹の虫のような感懐ではなかろうか。環境問題が日を追ってかまびすしくなる昨今、水上の遺した言葉の意味は重い。「若州一滴文庫」から程近い若狭湾の、海上ににょきりと突き出た半島のそこかしこで、“原発銀座”と呼ばれるたくさんの発電所が稼働していることを考えると、彼の言葉はいよいよ重いのである。

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