てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ワシントンから来た絵画たち(19)

2011年12月22日 | 美術随想
第四章 ポスト印象派以降 その2


ポール・セザンヌ『赤いチョッキの少年』(1888-1890年)

 『赤いチョッキの少年』には、いかにもセザンヌ的な人物表現があらわれている。父が死んで間もなく、彼はこの絵に取りかかったが、真の自由を得た心の高揚が明るい色彩に反映しているようである。

 データによれば、この絵の完成までは実に足掛け3年を要している。実際にいつからいつまでかかったのかは不明だが、セザンヌが非常に遅筆だったことはたしかなようだ。りんごを描いているうちに腐らせてしまうこともあったという(ただ、このことは現代の写実絵画の作者にも通じることである)。

 人物を描く際にも、100回以上ポーズをとらされたモデルもいた。セザンヌは一枚の絵を仕上げるのに、まことに難渋する画家だったのだ。彼が生涯の最後を、故郷のサント・ヴィクトワール山を描くことに費やしたのもうなずける。山は、自身の意志では決して動かないからである。

 そのわりには、前にも書いたように、セザンヌの絵は未完成に見えるものが多い。モネのように移ろいゆく自然をありのままに描こうとした画家なら、どうしても絵筆のスピードが間に合わなくて、じゅうぶんに描ききれなかった部分が残ってしまうのもありそうな話だ。けれども、セザンヌはじっくりと時間をかけて描いていながら、どうして塗り残しができてしまうのか?

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 洲之内徹は『気まぐれ美術館』という一連の美術エッセイのなかで、その疑問についてこう書いている。

 《セザンヌが凡庸な画家だったら、いい加減に辻褄を合わせて、苦もなくそこを塗り潰してしまったろう。凡庸な絵かきというものは、批評家も同じだが、辻褄を合わせることだけに気を取られていて、辻褄を合わせようとして嘘をつく。それをしなかった、というよりもできなかったということが、セザンヌの非凡の最小限の証明なんだ。》(『セザンヌの塗り残し』新潮社刊)

 基本的には、ぼくも洲之内の意見に賛成だ。絵画というものは原則として、三次元のものを二次元に変換する作業である。現代では反対に、二次元のものに三次元の効果を与えることばかり考えているようだから、映画の制作会社などでそういう仕事に従事している人には、それこそ逆の意味で、セザンヌの苦しみがよくわかるのかもしれない。

 つまり二次元と三次元とのあいだには、どうしても辻褄の合わない部分が残ってしまうのだ。克明な写真を立体化させるのならまだしも、人の手によって描かれた絵画のなかには、どうやって立体にしたらいいのかわからない箇所があるのは当然である。

 ぼくは今年、名古屋で開かれたゴッホの展覧会で、『アルルの寝室』に描かれた部屋を原寸大で再現したものを観た。これはゴッホの絵を手がかりにしただけではなく、残されていた見取り図を参考にしたということで、絵画ではかなり歪んでいる部屋の内部が、実際には(当然だが)整然としていることがはっきりする。

 同様の例は『オーヴェールの教会』という絵でもよくわかる。知りたい向きは、テレビ東京の「美の巨人たち」のオープニングを見ればよい。実写の教会の映像のうえに、ゴッホの絵がかぶさる。ゴッホがいかに現実を歪めて描いているか ― あるいは“描かざるを得なかったか” ― がたちどころに理解できるだろう。

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 セザンヌは、辻褄の合わないところを“歪める”という方法と、“塗り残す”という方法とを使い分けた画家である。

 『赤いチョッキの少年』では明らかに、左腕が長く変形されていると思う。数年後に描かれた同じ題の絵(下図)でも、右腕が不自然に長いことが指摘されている。彼は自分の目指す絵画に到達するためには、外形を歪めて描くことぐらい何でもなかった。


参考画像:ポール・セザンヌ『赤いチョッキの少年』(1890-95年、ビュールレ・コレクション蔵、ただし盗難に遭い現在は所在不明)

 なかなか描けないところを歪めて描いてしまう大胆さと、塗り残してしまう謙虚さ。セザンヌの絵は、彼の一筋縄ではいかない側面を雄弁に語ってくれているようである。

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