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〔国立国際美術館〕
ぼくは、少し古い型だが、デジタルカメラをもっている。仕事への行き帰りは別として、外出するときはたいてい、そのカメラを携えて出ることにしている。このブログに何度も載せたことがあるので、今さらことわるほどの話でもないだろう。そのかわり、携帯電話のカメラ機能はあまり使わない。
特に写真が趣味というわけではないが、カメラを構えるときには、ぼくなりの美学、といっておかしければ、些細なこだわりのようなものがあるのに気づく。まず、人物をできるだけ撮らない。人のポートレートなど、もってのほかである。人物がたくさんいる場所を撮りたい場合には、やむを得ずアングルから排除する。思わず知らず写り込んでしまった人がいたら、パソコンで消してしまうこともある。
だから、都会に出かけたときは本当に困る。東京にも何度か旅行したが、どうしても人影が写ってしまうのだ。満足に撮れたのは建物の写真ばかり、といった具合になる。仮に京都であっても、満開の桜を撮ろうとすると、大勢の観光客がどうしても邪魔だ。早朝の、まだ誰もいない時間帯に行って撮影すればいいのだが、そんな体力もない・・・。
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と、ここに書いたような妙なこだわりは、やはりぼくが、写真イコール“美術の一形態”と思い込んでいるふしがあるからだろう。重い機材を組み立て、慎重にアングルを選び、絶妙のタイミングをねらってシャッターを切る。別にそこまでしなくとも、何枚か撮ったなかから最上のものを厳選して、写真集に載せるなり、展覧会に出すなりすれば、そこには上質の美感を備えた作品が並ぶことになろう。
だが、ぼくの美的欲求をそこまで満たしてくれる写真展というのは、実はなかなかない。これまでも写真の記事を何度か書いてきたが、正直にいうと、絵画のように写真に感動することはぼくにとって非常に難しいことなのである。
それにもかかわらず写真展にときどき足を運ぶのは、自分でもよく説明がつかない話だ。特に国立国際美術館で森山大道(だいどう)の大規模な展覧会をやっていると知ったときには、行こうかやめようか、ぎりぎりまで迷った。彼の写真をたくさん観てきたというわけではないが、ぼくの好むような“美術”的な写真でないことはよく知っていたからだ。
それでも、意を決して出かけることにした。そこにはまだ知らない写真のありようが、というより、平凡な日常のなかでぬくぬくと暮らしているぼくの感受性を一喝してくれるような何かが、待ち受けているような気がしたからである。
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