
『砂上』(1936年)京都市美術館蔵
※この作品は出品作ではありません
女性画家には、一生独身を通して絵画に打ち込んだという人もいる。俗ないいかたをすれば、女としての幸せを捨てて美術に魂を売ったということである(たとえば片岡球子がそうだった)。しかし秋野不矩は、画塾の先輩だった画家と24歳で結婚し、5男1女をもうけた。妻として母として、そして画家として、若き日の彼女は大忙しであった。
『砂上』は、生まれたばかりの次男の子育てと並行して描かれた作品だ。この絵からしてすでに、彼女の型破りな着眼点が際立っている。砂漠の上に後ろ向きに横たわる女と、素裸で戯れる3人の子供たち・・・。真っ黒に日焼けした肌をあらわにしたこれらの人物像は、優美な美人画や花鳥風月を定番とする日本画の世界から大きく逸脱しているといわなければならない。
望むと望まないとにかかわらず、画家がこの作品で描き出しているのは、湿潤な日本風土とのなまぬるい共生感ではなく、草木の一本も生えないような過酷な自然への愛着である。このとき不矩は京都に住んでいたので、絵の舞台となったのはせいぜいどこかの海岸の砂浜であろうけれど、波打ち際をいっさい描かず、登場人物にはほとんど何も着せないという徹底ぶりで、これが日本のどこかの光景であるという事実を絵のなかから慎重に締め出そうとしているかに思われる。
もちろん子供たちの髪型や、生白い足の裏の表現によって彼女たちが日本人であることは容易にわかるけれど、これほどまでに日に焼けた人物像を正面きって取り上げた日本画というのは、ほとんど前例がないのではあるまいか。小さな布切れを腰に巻いただけでのんびりと寝そべる女の姿は、さながら“褐色のヴィーナス”である。
不矩は幼いころ、新任の図画教師からゴーギャンの絵の素晴らしさを教わったという。その経験が、『砂上』の特異なモチーフに大きく影響していることはじゅうぶん想像できるだろう。不矩がインドと出会うのはずっと後のことだけれど、彼女の進むべき道はこのときすでに用意されていたのかもしれない。
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『紅裳』(1938年)京都市美術館蔵
※この作品は出品作ではありません
しかしそれから僅か2年後、不矩は『紅裳』という絵を描く。慎ましく着物に身を包んだ色白の娘たちが、思い思いの姿でテーブルの周りに座っている図である。舞台は京都の有名な老舗ホテルらしく、椅子の座面はビロードのようで高級感があるが、おもしろいことに背もたれがない。
それにしても、『砂上』から一転して日本画の伝統を強く意識させる作品だ。ざっと見比べただけでも、本当に同じ作者の絵かという感じがする。
もちろんこれはこれで、じゅうぶんに眼を楽しませてくれる一枚だ。赤を基調としながらも、さまざまな柄で変化をつけた鮮やかな着物。娘たちの表情はとてもよく似ているが(もしかしたら同一のモデルかもしれない)、頬杖をつく者、肘掛けにもたれる者、後ろ手に体を支える者など、ポーズに工夫が凝らされていて飽きさせない。
しかしぼくが気になるのは、いちばん手前に座った娘が締めている帯だ。彼女だけは真後ろを向いていて、その顔つきをうかがうことはできないが、その黄土色をした帯は何だか異様なものに映る。そこに織り出されている柄も、あまり見たことのないものである。
この色が大地の色だ、などと牽強付会なことをいうつもりはないが、のちに不矩がインドの民家を描くとき、壁に描きつけた文様とよく似ているのには驚かざるを得ない。さっきも書いたように、不矩が実際にインドを訪れるのはずっと先の話だけれど、まるで周到に張られた伏線のようにして、インドを連想させるモチーフが彼女の絵のなかにちらつくのである。不矩が背もたれのない椅子にモデルを座らせたのは、この帯が描きたかったからではないか、と勘ぐりたくもなるほどだ。
しかし当時の評者たちは、そんなこととは関係なく『紅裳』のできばえを高く評価し、この絵は「新文展」(のちの「日展」)の特選となった。弱冠30歳にして、秋野不矩は日本画壇から認められたのである。
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