てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

インドの大地に不矩きたる(3)

2008年06月07日 | 美術随想

『少年群像』(1950年)浜松市秋野不矩美術館蔵

 やがて「文展」無鑑査に推挙され、ひとまず安住の地を得た秋野不矩は、その一方で途切れることなく6人の子を生み育てている。堅実な画風と、賑やかな家庭。わが子が作品のモチーフとして登場してくるのも、自然の流れだろう。不矩がどんな妻であり母であったか、ぼくは詳しく知らないけれど(おそらく本人も多くは語らなかったろう)、はた目からは充実した人生を歩んでいるように見えたにちがいない。「日展」に改組されてからも、彼女は順調に出品をつづけている。

 しかしあるとき、彼女は突然「日展」を離れ、夫とともに「創造美術」(のちの「創画会」)の結成に参加する。メンバーのなかには上村松園の息子である松篁もいた。

 上村松園と松篁とは、親子としては強い信頼で結ばれていただろうが、その作風には大きな断絶がある。秋野不矩もまた、匂い立つような古典美を完成させた松園とは別の道を歩むことを決断したのだ。「創造美術」旗揚げの翌年に松園が没したことは、まさしく歴史の移り変わりを象徴するできごとであった。

 しかし、それだけではない。不矩の子育てが一段落する時期と、彼女が「日展」を去った時期とが、奇妙に符合しているように感じられるのである。創作活動と日常生活との間で絶妙に保たれていたバランスが、ここにきて傾きはじめる。人生の比重が、画家としての生き方のほうへ徐々にシフトしていったのだ。彼女は啓示を受けたように、何ものからも束縛されることなく自分の絵を追求するようになる。

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 そうして生まれたのが、『少年群像』という絵である。この絵は自分の子供をモデルに描かれたということだが、同じ群像表現でも先の『紅裳』とはいちじるしく隔たっている。ひとりひとりを丹念に描きわけようという意図は、すでにここにはない。人間の固体を描写することに、画家の関心はない。

 画中の人物に何も着せていない点では、『砂上』とも同じだ。しかしあまりにも現実からかけ離れた黄色い肉体は、いかなる状況説明もなく、頭と足先が画面の外で断ち切られた無造作な状態でわれわれの前に投げ出される。子供に特有の愛くるしさもなく、大人の裸体にみられるたくましさもなく、か細い少年の体が正面から、横から、そして真後ろから執拗に描かれている。

 自分の子供を、はたしてこんなふうに描くものだろうか。数年前の展覧会でこの絵を観たとき、そんな疑問がぼくの頭のなかにたちまち沸き起こったのを思い出す。何だか、とても残酷な絵を見せられているような気がしたのだ。わが子の衣服をひんむいて、ここまであらわにすることはないのではないか、と思えたのである。

 だが、不矩自身にもまだ迷いがあったのだろう。この絵のほかにも少年の群像をいくつか描いているが、暗闇を手探りで進むような覚束ない絵に見える。考えてみればそれも当然の話で、旧態依然の画壇に反旗をひるがえしたはいいが、だからといって新しい日本画のあるべき姿がすぐに見つかるわけではないのだ。大いなる模索の所産というべきこの『少年群像』に第1回上村松園賞が授与されたという事実は、皮肉としかいいようがない。

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 ただ、ひとつだけ気になることがある。『少年群像』の肉体の黄土色は、のちに不矩がインドを描くときに使った色だということである。赤の諧調が心地よい『紅裳』のなかに、不協和音のようにして描き込まれたあの帯と同じ色だということである。

 その色彩が氾濫する乾いた大地に彼女がはじめて上陸したのは、実に54歳のときであった。

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