てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

京都市美術館の名品たち(4)

2012年02月12日 | 美術随想

須田国太郎『村』(1937年)

 須田国太郎の絵を、ひと眼観ただけで気に入る人は、誤解を恐れずにいえば相当な変わり者である。

 ただ、そのときは感心しなくても、心のどこか片隅にいつまでも尾を引いて残ったりする。さっき食べた料理のネギがずっと歯に挟まっていて、ふとした拍子にどうしようもなく気になり出すように、絵を観てからしばらく経ったあとでも不意に彼の絵を思い出しては、あれはいったいなぜあんなふうに描かれねばならなかったのか、と考えてしまうのだ。須田が京都帝国大学(今の京大)哲学科を出ていることを思い合わせると、なるほど哲学的な絵なのかもしれない、とすらいいたくなる。

 だが、須田国太郎の絵は基本的に写実に根ざしていて、何も難しいところはない。『村』は、文字どおり日本の村を描いた風景画にすぎないのだ。建売住宅のような個性のない家屋が並んでいて、今でいう“村”という言葉から連想されるような長閑さはないけれど、そんな何の変哲もない景色をあえて取り上げたところに、単に美しいだけではない絵画を求めた彼の姿勢があるようである。

 たとえば太田喜二郎の絵からは追放されていた要素を、須田は復活させた。つまりは、どす黒いほどの暗色がそれだ。彼はスペインのマドリッドに4年間も住んでいた。プラド美術館にもしょっちゅう出かけていたというから、たとえばゴヤの『黒い絵』などを観て刺激を受けることはあったにちがいない。

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参考画像:須田国太郎『アーヴィラ』(1920年、京都国立近代美術館蔵)

 けれども仏文学者の杉本秀太郎は、須田絵画のベースにあるのは「臙脂色」だと喝破した。杉本は次のように説く。

 《須田国太郎の絵は暗い、暗すぎると人はいう。だが、臙脂色が策動し、この色から生じた海老茶の滲出している画面は、けっして暗くもなければ陰気でもない。ひそかな臙脂の働きにしたがって奥のほうへ、深いほうへ近づけば近づくほどに、画面は向うのほうから明るくなる。臙脂の基層に照り返された光によって明るい。》(『京都夢幻記』新潮社)

 『アーヴィラ』は、若き日の須田の滞欧作である。この場所はスペインの古都で、今では世界遺産に登録されているほど歴史のある街らしい。

 なるほどこの絵を観ると、臙脂色が支配している。黒い影のようなものが描かれてはいるが、暗いというよりは明るい絵だという感じがする。

 日本で描かれた『村』に眼を移すと、途端に色彩が豊かに見えてくるから不思議だ。むしろ臙脂色は表立ってあらわれてこないで、黒い影と等価の白壁の輝きが眼を惹く。緑のような色も、紺のような色もちりばめられている。そして、スペインにはない湿潤な風土がたしかに描かれているのを感ずるのである。

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 須田国太郎には、能や狂言を描いたスケッチも多く存在する。彼は油絵を描きはじめるのとほとんど同時に、謡曲を習いはじめたという。この、まさに水と油ともいえるふたつの側面が、この画家のなかには長年にわたって同居していたのだ。

 ぼくは以前、金剛能楽堂に出かけて能を観た話を書いたが(「若葉マークの観能記」)、実は同じ能楽堂に須田もよく出入りしていたようで ― ただし場所は移転してしまっているけれど ― 脇正面に座ってスケッチしているのを目撃したと、杉本秀太郎が書いている。京都をしばしば訪ねるだけで、かつて須田国太郎が眺めていた風景なり場所なりに遭遇することができるかもしれないのだ。ただ、それが須田の絵に描かれているように見えるとはかぎらない。

 須田が能舞台を好んで描いたのも、ほの暗い明かりの向こうに滲み出るように見える幽玄の世界に惹かれたからかもしれない。須田の暗色が奇異に映るのは、現代の街が明るすぎるだけなのである。

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