てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ピースサインの蔓延

2012年02月25日 | その他の随想


 子供のころについやってしまったことで、今でも心に引っかかっていることがひとつある。ほかの人に話すと、何だそんなことぐらい、といわれるに決まっているけれど・・・。

 何かの集まりで ― こども会だったか、学校の行事だったか忘れたが ― どこかの競技場のようなところに行ったとき、同行のカメラマンか親御さんだったかが不意に、何の予告もなしにカメラを向けた。その場にいた5、6人を撮ろうとしたのだが、なぜか皆申し合わせたように、右手でピースをした。ぼくもつられて、カメラに向かってピースサインをしてしまった。そのことが、いまだに悔やまれるのである。

 なぜなら、ぼくは他のいかなる場合でも、写真を撮られる際にピースサインをしたことがなかったからだ。そういう主義だというわけではないが、なぜ皆がこぞってピースをしようとするのか、いったいあのポーズに何の意味があるのかがわからない。納得もできないのに他人のするままに流されることが、ぼくは嫌いなのである。あの競技場での一枚の写真は、一生の不覚だったといえる。

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 そもそも、ピースサイン(Vサイン)というのは何なのか。ピースといえば平和ということだが、何が平和だというのか。

 デジタルカメラの全盛期を迎え、画像の複製も消去も手軽にできる今の時代ならともかく、フィルムのカメラがまだ支配的だったあの当時、そこまでして平和をアピールする姿をネガに焼き付けたかったのだろうか。そんなわけではあるまい。

 ピースサインの起源についてはいろいろいわれているようだが、そんなことはどうでもいい。カメラを向けられると、わけもなくピースをしてしまう日本人の心理が、ぼくには不思議でならないのだ。

 明治時代のころの集合写真を見ると、まだ写真というメディアに対して一種の気おくれがあった時代が懐かしくなる。かつては「写真に写ると魂が抜き取られる」などといわれたせいもあるだろうが、必要以上に自分を誇示することなく、ほとんど直立不動の姿勢で写っていた。おとなしく“撮られている”さまが、いじらしい。

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 日本人の謙虚さが写真から失われるようになったのは、なぜなのか。皆で写真を撮るとき一斉にピースサインをすることによって、そこに一体感が生まれているように思うのか。だとしたら、とんでもない勘ちがいではないかとぼくはいいたい。

 よくないたとえかもしれないが、若者が事故などで不慮の死を遂げたとする。まだ若いので、写真館で撮るようなちゃんとした写真は残っていない。仕方なく、仲間と一緒に写したスナップを切り抜いて祭壇に飾ることになるが、なぜかピースサインをしていることがある。ニュースなどの報道でも、そういった写真が使われることが少なくない。

 その写真からは、いいようのない孤独感があぶり出されているように、ぼくには見える。皆で一緒にピースサインをすることによって、仲間意識に寄りかかっているときは楽しいかもしれないけれど、ひとり切り離されたときには、その断面があまりにも哀れなのだ。彼は(彼女は)ひとりで何をなし得たのか、自分のどこに誇りをもっていたのか、これからどうやって生きていこうとしていたのか、まったく伝わってこないのである。

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 他の国の人が見ても、日本人の“ピース狂”は理解しがたいことだろう。ぼくも一歩離れたところから彼らを見ていて、その心の奥にあるものを計りかねている。

(了)

(画像は記事と関係ありません)