てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

京都市美術館の名品たち(3)

2012年02月11日 | 美術随想

太田喜二郎『樹陰』(1911年)

 ぼくの勝手な意見だが、日本には印象派絵画は根付かなかったのではないか。

 いやそんなことはない、日本では今でもしょっちゅう印象派の展覧会が開かれているし、お客もいっぱい入っているではないか、という反論がすぐさま聞こえてきそうだ。ただ、ぼくがいっているのは、印象派の描き方を取り入れた日本人画家のことである。これほど印象派の好きな国民なのに、印象派ふうの絵を描いて高い評価を受けた日本の画家は、非常に少ないといえる。

 太田喜二郎の存在を知る人も、決して多くはないだろう。彼は京都の生まれなので、京都の美術館には絵がたくさん所蔵されているようだ。そのなかでもっとも人の眼に触れる機会が多いのはこの『樹陰』だけれども、その他の作品は、あまり公開されることがない。

 『樹陰』は、観ているこっちが恥ずかしくなるほど、印象派のスタイルをあからさまに取り入れている。“影響”などというものではなく、“模倣”に近い。けれども、その仕事ぶりは丁寧で、たとえばモネの『印象・日の出』が「未完成」と酷評されたことに比べれば、じゅうぶん完成度が高いと思う。

 印象派といえば、そのモネに代表されるような、時間とともに移り変わる色彩の変化をキャンバスにとらえようとする性急な絵画と、のちに新印象派と呼ばれたスーラの点描画のような、途方もない時間をかけてこつこつと仕上げる絵画の両方がある。太田喜二郎は、それらのちょうど中間に位置する、まことに親しみやすい作風の絵を描いた画家だという気がする。

 ちなみに、太田は西陣の商人の家に生まれたらしい。細い糸の複雑な交錯によってひとつの大きな平面世界を築いていく織物の仕事に、彼が幼いころから親しんでいたとしたら、その絵画の成り立ちに何らかの影響力をもたらしたかもしれない。そういえば、太田の仕事ぶりは芸術家然としているというよりも、良質な職人の仕事をみているようなところがないでもないのである。

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参考画像:児島虎次郎『和服を着たベルギーの少女』(1911年、大原美術館蔵)

 実をいうと、太田喜二郎の印象派は、フランス伝来のものではない。明治の終わりから大正のはじめにかけて、彼はベルギーに留学している。『樹陰』も、ベルギーで描かれたものだ。

 同じころ、ベルギーで油絵を学ぶもうひとりの日本人がいた。児島虎次郎である。彼も印象派ふうの絵を描く画家であるが、大原美術館に収蔵されている絵の多くを買い集めた ― モネの『睡蓮』に至っては、モネからじきじきに購入した ― ことでよく知られているかもしれない。

 児島はベルギーに来る前に、フランスのグレーにしばらく滞在している。彼も浅井忠と同じように、青々と葉を繁らせる柳を見たにちがいない。しかしやがてグレーを離れ、かつて東京でともに学んだ太田喜二郎をたずねてベルギーを訪れる。最初は短期の旅行のつもりだったのだが、熱心にすすめられてその地にとどまり、太田と同じ美術学校に入ることになった。

 『和服を着たベルギーの少女』は、『樹陰』と同じ年にベルギーで描かれている。太田と児島が、互いに切磋琢磨しながら、印象派の技法を身につけようと精進し合った時代の名残だろう。

 なお、児島虎次郎は倉敷と縁が深い。彼の記念館も、倉敷にある。太田喜二郎ともども、繊維産業にゆかりのあるこのふたりが印象派の作風を貪欲に取り込んでいったのは、単なる偶然ではないのではないかと、ぼくは思う。

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