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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

五十点美術館 No.11

2008年03月31日 | 五十点美術館
クールベ『フラジェの樫の木』


 この~木なんの木、気になる木・・・

 この絵を観ると、思わず口ずさみたくなってくるのはぼくだけだろうか。

 タイトルからすると、フランスのフラジェというところにある樫の木らしいが、実際にCMに取り上げられてもおかしくないぐらい、立派な木である。下手な小細工をしないで、主題となる樫の木を中心に据え、真正面から描いているところは、木の肖像画だといっても過言ではない。みずからを写実主義者と称し、同時代のありのままの現実を描くことを課題としたクールベらしい、率直な絵である。

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 けれども、ぼくはクールベの写実主義というものが、今ひとつ腑に落ちない。彼の言動が、いささか現実から遊離しているように感じられるのだ。

 彼の代表作のひとつに、巨大な『オルナンの埋葬』という絵がある。オルナンというのは歴史的に有名な場所でも何でもなく、クールベが生まれた小さな山村の名前であり、そこに埋葬されようとしている人も、葬式に集まってきた村人も、無名の人たちばかりだ。その点では、まさにありのままの現実を描いているのだが、彼は当初、その絵を「歴史画」と名づけたというのである。

 もうひとつの大作『画家のアトリエ』では、キャンバスに向かっているクールベ自身の姿を絵の中央に配し、その右側には彼の支持者たちを、反対側には芸術と無縁の生活を送っている商人や農民や娼婦たちを描いているとされるが、これも画家みずから「現実的寓意画」であるといっている。寓意といえば、写実とは正反対ともいえる要素で、もちろんこんな情景は現実にはあり得ないし、画家の構想の産物であることはいうまでもない。

 クールベの人間性にも、何かといわくがついてまわる。何しろ彼は稀代の自信家で、自伝のなかでもみずからを絶賛するような誇大な表現を書いているそうだし、万博に絵を出品しようとして失敗すると、万博会場の近くに場所を借りて自腹で展覧会を開いたり(歴史上はじめておこなわれた「個展」だといわれている)、パリ・コミューンに加わったかどで投獄されたり、社会を挑発するようなことをたびたび仕出かしているのである。

 そんな彼の眼に見えていたのは“現実”ではなく、そこから遠く離れた“理想”だったのではなかろうか?

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 この『フラジェの樫の木』も、最初は『ヴェルサンジェトリクスの樫の木とよばれるフラジェの樫の木、アレシア近くのシーザーの陣地、フランシュ・コンテ』という長い題名がつけられていたという。

 フランシュ・コンテというのは、フランスの地方の名前であり、クールベの父はそこの地主であった。そしてその地は、かつてアレシアの戦いのときに、ヴェルサンジェトリクスという将軍がジュリアス・シーザーの進軍を食い止めた歴史的な場所なのだ、というのである。実はこれはクールベの思い込みにすぎず、事実ではないそうだが、たかが一本の木にさえ箔をつけようとする、大仰さを好む彼の意図が透けて見えるようだ。

 こういう言動は、実は自信のなさの裏返しなのではないか、と勘ぐりたくもなってくる。クールベは、絵そのもので勝負しようとはしなかったように思われる。

 だが、彼の最大の誤算は、そうやって自分を持ち上げなくても、その絵はじゅうぶんに素晴らしかったということだ。理屈抜きで対象に肉薄した人物画や、逆巻く波を真正面からとらえた海景画、そしてオルナンのダイナミックな風景を描いた多くの絵は、ぼくたちを惹きつけてやまない。

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 この~木なんの木、気になる木・・・

 こう歌いたくなるほど見事な樫の木は、今でもフランシュ・コンテ地方の、フラジェのどこかに聳えているのだろうか。この絵が描かれてから150年近くが経過しているが、木の生命は長いから、もしかしたらまだ生きのびているかもしれない。

(村内美術館旧蔵)

五十点美術館 No.12を読む

五十点美術館 No.10

2008年03月23日 | 五十点美術館
岡本太郎『明日の神話』

(下絵、部分、名古屋市美術館蔵)

 ぼくが岡本太郎の芸術にはじめて触れたのは、小学5年生ごろのことである。オープンして間もない福井の百貨店に、まるでおもちゃ箱をひっくり返したみたいな、多彩な作品群を一堂に並べた展覧会がやってきた。油絵だけでなく、カラフルな彫刻もあったし、焼物や書もあった。

 それまで、「太陽の塔」に会いたくて大阪吹田の万博記念公園へ連れて行ってもらったことはあったが、ほかの作品を観たことはなかった。ぼくはその日を境に、一気に太郎ワールドに引きずり込まれた。以来、今日に至るまで、熱はまったく冷めていないといっていい。

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 当時、岡本太郎はもちろん生きていた。展覧会に合わせて福井を訪れ、サイン会を開いたりもした(ぼくは残念ながら、そのときには行けなかったが)。地元のローカルニュースのなかでその模様が紹介されたとき、太郎みずからが、いくつかの作品についてわざわざ解説をしてくれていた。彼は横に長い絵の前に立つと、カメラに向かって次のような意味のことをいった。

 「これは、メキシコからの依頼で描いた。メキシコでは火というものを大変嫌うのだが、私はあえて、荒々しく燃える火を描いた。そしてこの絵を、『日本の神話』と名づけた。」

 太郎の言葉に合わせて、テレビ画面のテロップにも『日本の神話』という文字が表示された。ぼくはそのことを覚えていて、後日展覧会に足を運んだとき、その横長の絵のタイトルが、太郎がいったのとはちがって『明日の神話』となっていることを不思議に思った。太郎は、何か勘違いをしていたのだろうか? それとも、単なる印刷ミスだろうか? それにしては、親にねだって買ってもらった図録にも『明日の神話』と書かれているのである。

 その絵こそが、のちにメキシコで残骸が発見され、大がかりな修復がほどこされたあげく、派手な除幕式とともに公開された巨大壁画の下絵であったのだ。

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 『明日の神話』には、全部で4枚の下絵がある(もう1枚あることが最近発見されたが、白い絵の具で塗りつぶされてしまっていた)。

 何年か前に休暇を取って名古屋市美術館に出かけとき、そのうちの3つが、展示室の三方の壁に掛けられていたことがあった。平日のせいか、誰もいない部屋で、3枚の『明日の神話』に囲まれながら、ぼくはしばらくの間ベンチに腰掛け、この絵はいったい何を描こうとしたのか、ということを考えた。かつて太郎自身が、この絵は『日本の神話』だ、といった(いいまちがえた?)ことを含めて。

 でもそんなこととは関係なく、壁画の存在が有名になるごとに、この絵は原爆が炸裂する瞬間がモチーフになっている、ということになってしまった。太郎自身、自分の文章のなかでそのようなことを書いているようだが、『明日の神話』という抽象的なタイトルには、まだまだ解釈の余地があるはずだ(ピカソが自作の壁画に『ゲルニカ』という即物的な題を与えたのとは対照的である)。だが、いわば“お仕着せ”のテーマを引っさげたかたちで、壁画はついに復元され、われわれの前に鳴り物入りで姿をあらわした。

 昨秋、フェルメールの絵を観るために上京したついでに、東京都現代美術館に仮展示されている壁画の実物を観た。それは予想していたよりもはるかに大きく、圧倒的な迫力で迫ってきて、ぼくはもちろん心から感動したが、同時にこれが“原爆の絵”として語り継がれることに、やはりどうしても違和感を禁じ得なかったのである。

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 『明日の神話』の本当の意味が問われるのは、実はこれからだろう。この大壁画は、一朝一夕に答えを導き出せるような、そう簡単な作品ではないのだ。考えてみれば「太陽の塔」だって、万博が終わり、すべてのパビリオンが取り壊されたあとになって、ようやくその存在意義がはっきりしてきたようなところがあるではないか。

 つい先ごろ、『明日の神話』が渋谷へ恒久設置されることが決定した。ひとりの芸術家の作品の、前代未聞の“誘致活動”(決して購入ではない)は、ここに幕を閉じたが、作品は個人の精神に根をおろすべきものである以上、どこに設置されようと同じことだ。

 しかし、人通りの多い渋谷に設置されるということは、「絵の前にたったひとりでたたずむ」ということが困難になるかもしれない。壁画に託した岡本太郎の思いと、それを眺めるひとりひとりの思いとが、うまく釣り合えばいいが・・・。ぼくは今、そのことだけを心配している。


(復元された壁画の全体図)

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五十点美術館 No.9

2008年03月14日 | 五十点美術館
中村彝『頭蓋骨を持てる自画像』


 私的なことだが、ぼくは今年の8月で37歳を迎える。もはや若者とはいえないが、中年と呼ばれるには抵抗がある。もしこの年で死んだとしたら、夭折という扱いをされるかもしれない。ことごとくにおいて、中途半端な年齢である。

 ぼくはひとつ年を取るたびごとに、同い年で死んだ著名人のことが気にかかる。今この年齢になるまでに、素晴らしい仕事をやり遂げてきた人たちがいたというのに、このぼくはまだ何もできていない、と自分をいましめるつもりなのだ。だが、こっちはどうせ“ただの人”にすぎないのだから、世界的な偉人と単純に比較したところで、どうなるというものでもないけれど・・・。

 37歳というと、すぐ思いつくところでは宮沢賢治が死んだ年である。美術に眼を移すと、ゴッホがみずから命を断ったのも37歳のときであった。さらには、ルネサンスの代表者のひとりラファエロも、やはり37歳で生涯を閉じている。そして日本人画家では、中村彝(つね)がそれにあたるのである。

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 といっても、中村彝のことをそれほどよく知っているというわけではない。重要文化財になっている有名な『エロシェンコ氏の像』は写真でしか観たことがないし、これまで実物に接した作品は10点あるかないかというところだろう。

 中村彝は、ルノワールの影響を受けた画家だといわれている。つい先日、ひろしま美術館が所蔵しているルノワールの『パリスの審判』という絵を観る機会があったが、中村がこの絵の模写を残していることを後で知った。また、俊子という健康的な少女のあられもない裸体を描いた作品にも、ルノワール的なものが感じられる。肉付きのよい豊満な女性像は、いかにもルノワール好みである(この少女は、クリームパンを発明したパン屋「中村屋」の令嬢であった)。

 しかし画家本人の肉体は、結核という病魔に冒されていたのだ。いうまでもなく、当時の結核は不治の病いであった。彝は30代の半ばになって病状が悪化し、寝たきりの生活を余儀なくされる。遺書をしたためていたともいう。若き晩年が彼を待ち構えていたのである。

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 そんななか、最後の力をふりしぼって描かれたのが『頭蓋骨を持てる自画像』だ。頬はすっかりこけ、髪は逆立ち、眼ばかりがらんらんと輝いて虚空を見つめているこの表情を前にすると、ぼくは言葉を失わざるを得ない。

 瀕死の男が手にしているのは、ドクロである。画面上部の角は、まるで教会の壁に穿たれた壁龕(へきがん)のように丸く縁取られ、金色に塗られている(これの正体は楕円形の鏡の枠らしい)。男の両肩には、聖職者を思わせる黒いマントが掛けられている。

 彝とモデルの俊子とは恋愛関係におちいったが、周囲の反対もあって別れていた。そして今では、絵筆を握ることさえも覚束ない、死期の迫った肺病やみである。この世への置き土産のように、最後の自分の姿を描きとめようとしたとき、画家としての姿ではなく、みずからを聖人になぞらえて描こうとした。彝は洗礼を受けたことはあったが、熱心なクリスチャンというわけではなかった。だが、今の彼には、ほかに何も残されてはいなかったのだ。

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 画面の左下には、少しばかり白く塗り残されたような箇所がある。病み衰えた画家は、もう力尽きてしまったのであろうか。この自画像が描かれた翌年、彝は他界する。さっきも書いたとおり、37歳であった。

 ほとんど今のぼくと同じ年代に、生と死の狭間にいる自分自身をぎりぎりまで見つめて描いた、中村彝の自画像。この絵は何も語りはしないが、ときどきぼくに向かって何かをいいたげに、脳裏にあらわれるのである。

(大原美術館蔵)

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五十点美術館 No.8

2008年03月08日 | 五十点美術館
クレー『いとまごい(別れ)』


 パウル・クレーは、日本でも大変に人気がある。20世紀の画家のなかでは、ミロやシャガールなどとともに、もっとも愛されている人物のひとりだろう。展覧会もたびたびおこなわれていて、眼にする機会も多い。

 ぼくももちろん、クレーは好きだ。しかし同時に、これほどよくわかならい画家もいないのではないか、と思う。彼の描く作品世界は、ことごとくクレー流に変容させられている。

 クレー展を観ることは、よく練り上げられたマジックを次々と見せられるようなものだ。その鮮やかな手さばきに感嘆しているうちに、どうにも解きがたい謎のようなものが、心のなかに溜まってくるのを感ずるのである。

 クレーの残した絵は、ほとんどが小さいものばかりだ。近代の画家がしばしば手がけている壁画とか、緞帳のデザインのような公的な性格のものは、クレーの作品にはないだろう。彼はこっそりを詩を書きつけるように、私的な世界を小さなキャンバスのうえに紡いでいった。スイス生まれのクレーは、精密な時計職人のように、手の込んだ技法を駆使して繊細な美の結晶を作り上げた。

 しかし彼は一方で、驚くほど単純な絵も描いている。よく知られている天使の連作のように、一筆書きのような線画を多く残しているのだ。クレーの絵画世界は、研ぎ澄まされた線と、磨き上げられた輝ける色彩と、複雑なマチエールとが見事に響きあった管弦楽のようである。

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 2002年のこと、三重県で大規模なクレー展が開かれ、ぼくはわざわざ出かけていった。作品のサイズが小さいせいもあってか、100点をはるかに超えるたくさんの作品が展示され、かなり充実した展覧会だったが、そこで特に印象に残ったのが、どういうわけか、あまりにもシンプルな『いとまごい』という絵であった。

 まるで短冊のような細長い紙に、黒く豊かな線描で、首を傾ける人物の姿が描かれている。といっても、その表現はこれ以上あり得ないほどに抑制されていて、顔の部分は炭で目鼻を作った雪だるまのようだ。

 ものの数分で描かれたにちがいないような単純な絵が、どうしてこんなにも心に残るのだろうと、ぼくは不思議だった。考え抜かれた芝居のセリフよりも、人の口からなにげなく飛び出した素直な一言のほうが、胸の底にいつまでも沈殿しつづけることがあるのと同じかもしれない。

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 クレーは1940年に、60歳という若すぎる年齢で亡くなった。その生涯に、何と9000点を超える作品を残したといわれている。

 しかし、ぼくが知るかぎりでは、一枚一枚に新しい創意工夫が盛り込まれているような気がする。ひとつのモチーフで成功すると、それを安易に繰り返したくなるもので、そうやって生きのびてきた画家がたくさんいるのも事実だが、彼はいつも必ず、自分の絵に新しい要素を付け加える努力をおこたらなかった。

 だからクレーの展覧会は何回観ても、新鮮なのだ。彼こそは本当の意味での前衛であり、その作品の穏やかな印象にもかかわらず、絵画の真の冒険家であったにちがいないと、ぼくは信じる。

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 『いとまごい』は、クレーの死の2年前の作品だ。でも、みずからの命が長くないことを予感してこれを描いたのか、それともそうでないのかは、わからない。

 三重で観たこの絵とは、2年前に思いがけず、大阪の展覧会で再会した。日本語のタイトルは『別れ』に変更されていたけれど、それは間違いようのない、あの絵だった。

 9000点あまりの作品のうち、同じ絵に2回も出会えるなんて、と思いながら、ぼくはその小さくて純粋なクレーの人物画に“いとまごい”をするべく、しばらく黙って見つめていた。

(パウル・クレー・センター蔵)

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五十点美術館 No.7

2008年03月01日 | 五十点美術館
前田青邨『観画』


 ここに描かれている人物の顔を見ると、なぜかいつも市原悦子を思い出してしまう。

 それも、ひとりではない。クローンみたいに、同じ顔した市原さんが何人もいるので、ちょっと気味がわるい。

 しかしこの女性たちは、物陰からこっそり覗き見ているわけではなくて、何やら画面の右のほうをいっせいに見つめている。『観画』という題名からすると、彼女たちは寄ってたかって絵を鑑賞しているのにちがいないけれど、肝心のその絵は描かれておらず、ぼくたちの想像にまかされている。

 でも、女性たちの表情からその絵の内容を推測することは、まったく不可能だといっていいだろう。彼女たちの顔には、ほとんど何の感情もあらわれてはいない。眉ひとつ動かすでもなく、口々に感想をいい合ったりするわけでもない。

 それだけでなく、この絵のなかには床や壁や調度や、その場の状況を説明する要素さえ何ひとつ描き込まれていない。女性たちはいわば虚空のただなかに、人形のような、マネキンのような、何を考えているか容易に見分けのつかない顔で立っているだけだ。

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 日本古来の人物表現には、ふたつの系統があるように思う。まず『信貴山縁起絵巻』や『伴大納言絵巻』にみられるような、ひとりひとりの表情や動きをていねいに描き分けた、いきいきと躍動する描写である。そしてもうひとつは、『源氏物語絵巻』に代表されるような、いわゆる引目鉤鼻(ひきめかぎばな)の、無表情で動きに乏しい表現である。

 後者の場合、彼らの身に着けている服装が大きな発言力をもってくる。百人一首の絵札を思い出してもらうとよいが、彼らは決して表情豊かに描かれているわけではなく、顔を見ただけで誰かを見分けることは困難だ。それぞれが百人百様の多彩な衣装で描かれているために、容易に識別できるというわけである。

 『観画』の女性たちも、誰が誰かを見分けることは難しいし、さして必要でもない。ここで大切なのは、中国風の衣装がかもし出す美の諧調とでもいうべきものではなかろうか。よく見るとドレスに派手な縫い取りがされている人があるかと思えば、いちばん左の黄色の女性のように、何の装飾もほどこされていない人もある。髪形もひとりひとり微妙にちがうし、手にしている小さなバッグの色調も、それぞれ小気味よいアクセントを添えている。

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 前田青邨は、このような集団人物画をしばしば描いた人だ。壇ノ浦で海のもくずと消えた平知盛の亡霊が武士たちを従えて海上に出現する場面や、源頼朝とその一軍が洞窟に身をひそめている緊迫した瞬間など、実在の人物を描いた作品がとりわけ名高い。

 その絵からは、時の流れが一瞬止まったような不思議な静寂の気配がただよってくる。青邨が描きたかったのは、歴史上の劇的な一場面ではなく、そこに束の間あらわれるエアポケットのような静けさだったのではないか。不自然なポーズや芝居がかった表情は排除され、そこには人間の実存というか、存在そのものがはっきりと刻印されているようだ。

 しかし『観画』は、そんな重々しさから離れた、理屈ぬきに楽しめる作品だと思う。これが美術館の壁に掛けられていると、描かれた7人の女性たちが隣に掛かっている絵を品定めしているように見えることがある。青邨の控えめな遊び心が伝わってくるような、愉快な一枚である。

(京都市美術館蔵)

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