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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

五十点美術館 No.16

2008年05月17日 | 五十点美術館
野口謙蔵『五月の風景』


 何と思い切った、大胆な風景画だろう。絵のほぼ中央を、一直線に地平線が横切る。前景には青々とした麦畑が、爽やかな微風に波打ちながら広がっている。快晴の空にはひと筋の雲が流れ、恵みの光がさんさんと降ってくるかのようだ。

 そして天と地の間には、ぽつんと取り残されたように家々が描かれ、屋根の上には鯉のぼりがそよいでいる。日本のどこかの農村の、おおらかな五月の情景・・・。

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 それにしても、不思議な絵だ。使われている色の数は、非常に少ないように見える。描き方も、それほど細やかというわけではない。しかし画面からは広大な自然の豊かさ、思わず息を吸い込みたくなる豊饒な初夏の薫りが伝わってくる。

 とはいうものの、ここには人間の手がまったく入っていない天然の大自然は、いっさい描かれていないのだ。整然と植えられた麦畑は、まるで緑色の壁のようにも見え、一種人工的なおもむきがする。この畑はもちろん村の人たちによって栽培され、きたるべき収穫を期して大切に育てられているのだろう。

 現代の人は自然のかけらもない都会生活に飽きると、生まれたままの地球の姿を求め、アウトドアと称してわざわざ山に登ったり、小川のせせらぎの横でテントを張ったり、船に乗って沖へ出たりする。しかし昔の日本人は、自然とうまく共生することを知っていて、家を一歩出れば田畑がまわりに広がっていた。かつてはぼくも田舎に暮らしていたので、このような風景は少し歩けばいくらでも転がっていたものだが、そんな生活から遠く離れた今となっては、この絵に一抹の郷愁をそそられるほどになってしまった。

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 ここに描かれているのは、滋賀県の蒲生野と呼ばれるあたりの風景らしい。洋画家・野口謙蔵はその地に生まれ、東京で黒田清輝らに学ぶが卒業後は故郷に戻り、死ぬまで滋賀の風景や人々を描きつづけた。

 全国的にはそれほど知られている画家ではないかもしれないが、郷里の美術館には作品がいくつも収蔵され、復元された生前のアトリエも公開されているそうだ。ぼくは7年ほど前に、彼の代表作を網羅した大きな展覧会を観たことがあるのだが、いずれも日本洋画の常識から大きく逸脱した、個性的な作品ばかりなので驚いた。

 謙蔵の伯母は野口小蘋(しょうひん)という南画家で、謙蔵自身も一時は日本画を学んだことがあるというから、黒田清輝らのいわゆる外光派の影響を正当に受け継いでいるとはいいがたい。留学経験もない彼は、日本ならではの農村風景や、村で暮らす人々の生きざまを描くための手段を、誰の助けも借りないでひとりで追求したかに見える。

 しかし、病魔が謙蔵を襲った。「新文展」(現在の「日展」の前身)の審査員に任命された翌年、道半ばで彼は倒れる。43歳の若さだった。

 野口謙蔵がもう少し長生きしていたら、必ずや日本を代表する洋画家のひとりになっていたにちがいないと、ぼくは信じる。

(滋賀県立近代美術館蔵)

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五十点美術館 No.15

2008年05月11日 | 五十点美術館
鈴木其一『藤花図』


 毎年、藤の花を見にいこうと思って果たせていない。ツツジの見ごろに合わせた蹴上浄水場の公開に先立ち、南区の鳥羽水環境保全センター(いわゆる下水処理場)では藤の花が咲く時季に一般公開があるのだが、入院と重なったので行けずじまいだった。というわけで、ウェブ上観賞会である。

 藤の花は、まことに変わった花だと思う。真下につらら状にぶら下がる花なんて、そんなに多くないのではなかろうか。枝垂桜など下に向かって垂れ下がる花はあるけれど、垂直に下がっているわけではない。満開の藤棚の下に入ると、まるで藤色の滝を一身に浴びているような気がするだろう。

 そのせいか、藤の花は昔から愛されてきたようだ。花札に描かれているのはもちろんだし、家紋にもよく登場する。大津絵には藤娘の姿が描かれ、日本舞踊にもなっている。モネは自邸の庭の太鼓橋に藤の蔓をからませたという。ひまわりみたいに、太陽に向かって元気に咲き誇る花にはない独特の風情が、人々を惹きつけるのかもしれない。

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 「藤色」と書いたが、実際の藤は紫色の花弁と白っぽい花弁がセットになって咲いているので、その両方が眼のなかで混ぜ合わされてできた色かもしれない。まるで印象主義の理論のようだ。モネがこの花を好んだのもうなずける。しかし残念ながら、藤の花を克明に描いた西洋絵画というのをぼくは観たことがない。

 鈴木其一(きいつ)の『藤花図』は、日本の藤の絵のなかでも代表的なものだと思う。まさに題名のとおり、藤の花だけがクローズアップで描かれている(応挙にも有名な藤の絵があるが、横長の屏風に描かれているせいか、やや引いた構図になっている)。絵の縦の長さは1メートル以上あるのだが、ほとんど上から下まで藤の房で占められている。ほぼ原寸大か、それより少し大きいぐらいだろう。

 紫と白の重なり具合が非常に細かく描かれていて、ていねいな仕事ぶりに感心せざるを得ない。いわば、ちょっと大ぶりな点描画のようである。紫と白が網膜の上で溶け合って、やわらかな藤色に変貌していくさまを、この絵を眺めながら追体験することができるかもしれない。まるで小さな蝶の群れがびっしりと羽を休めているようにも見えて、上品ななかにも華やかさがただよう。

 しかし葉っぱのほうはというと、実に装飾的に、いわば“花札的”に処理されている。葉の一枚一枚が決して重なることなく、まるでアンリ・ルソーが描いたジャングルの絵のように、人工的ですらある。葉の大きさの大小を問わず、中心には白い筋が一本通っている。その規則性が、藤の花の密集した表現にバリエーションを加えている。

 異なったリズムがからまり合うと、複雑な表情が生まれる。いさぎよく真っ直ぐに垂れ下がる藤の房と、Sの字を描いて湾曲しながらのびる蔓の表現も、同じ効果をもたらしていることはいうまでもない。

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 鈴木其一は、江戸琳派を代表する絵師のひとりだ。彼の娘は、大規模な展覧会が開かれて話題になっている河鍋暁斎のもとに嫁いだ。つまり其一は暁斎の義父にあたるわけである。

 ぼくは特に其一の花鳥画が大好きだ。植物の特徴を素早くとらえて、見事に一幅の絵に仕上げてみせる。その画風は、写実と装飾の折衷というか、その両方が混在しているように思う。描くべきは描いて、省くべきは省くことを知っていた、まことに中庸を得た画家であった。

 若冲のように、ある種マニアックなアクの強さとは無縁である。もちろん、暁斎とも全然似ていない。異端の画家ばかりでなく、このような堅実な画業にももっと注目してほしいものだ。

 鈴木其一は1858年、数えの63歳で世を去った。今年が没後150年にあたる。

(細見美術館蔵)

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五十点美術館 No.14

2008年05月06日 | 五十点美術館
梶原緋佐子『古着市』


 美人画、というジャンルがある。ひとりの女性を描いた絵は、たいていそこに分類される。しかしこの女性は、お世辞にも美人とはいえないだろう。おそらくそんなに若くもなさそうだ。

 その表情もちょっとおかしい。眼つきが何だか恨みがましく、軽い狂気をはらんでいるようにすら見える。眼の下には濃いくまがある。口はぽかんと開いたままで、顔全体が微妙にゆがんでいる。髪はほつれ毛だらけ、衿は乱れ、見ていてかわいそうになるほどだ。座り方もだらしなく、組んだ足の指が裾からのぞいている。

 若いころの梶原緋佐子(ひさこ)は、社会の底辺で苦しみながら生きる女性をリアルに描いた。貧しい着物に身を包み、働きづめに働いて、疲れ切って放心状態になっている中年の女。彼女の肩の上には、重い現実がずしりとのしかかっているにちがいない。

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 華やかで洒脱な美人画が多く描かれた大正時代にあって、梶原の仕事は異色であった。竹久夢二に代表されるようなモダンで線の細い女性像がもてはやされた時代に、梶原は人生のどん底であえいでいるような女の姿を描きとめようとした。

 色づかいは暗く、構図は雑然としている。『古着市』という題名だが、古着はほとんど売れなかったのだろう。花の模様を染め抜いた綺麗な着物を手にしたまま、彼女はもう何もかもいやになったという顔つきで、何かを横目で見ている。

 その目線の先には、粋な着物を着こなした美しい女が媚態を振りまきながら歩いているのかもしれない。あるいは、古着がよく売れてほくほく顔の商売人が金勘定をしているのかもしれない。しかし本当は、彼女の眼には何も見えていなくて、ただ自分の苦難にみちた行く末をぼんやり思い描いているだけだという気もする。彼女の濁った眼には、何も映っていないのではないかという気もする。

 格差社会という言葉が、最近よく聞かれるようになった。ぼく自身、やはり社会の底辺近くにいる人間のひとりとして、さまざまな場面で格差を実感することは少なくない。働いて働いて、何を考えることもできなくなるほど疲れてしまうこともある(それがたび重なったせいか、入院するはめにもなった)。しかしそうまでして働かないと食っていけないのだから、やむを得ない。

 でも、格差社会は今にはじまったことではないのだ。『古着市』に描かれた女性の姿に、ぼくは一も二もなく共感してしまう。そしてそれを真っ正面から画題に取り上げた梶原緋佐子の眼のつけどころに、他の画家とはちがう非凡なものを感ずるのである。

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 昭和に入ると、梶原緋佐子の絵は一変した。プロレタリア絵画とでも呼びたくなるような従来の画題を捨て、正統的な美人画を描くようになった。絵のなかには働き疲れた女ではなく、美しい舞妓などがひんぱんに登場しはじめるのである。

 菊池契月に師事した梶原緋佐子は、もともと美人画を描く素養をじゅうぶんにもっていたことは疑いない。だから彼女の描く美人画も、かなり完成度の高いものだ。しかし美人画家というのはたくさんいる。絵はよく売れたかもしれないが、彼女の名前はやがて、他の多くの画家たちにまぎれてしまったように思う。

 緋佐子は昭和の終わる前年まで生き、91歳で亡くなった。今年が没後20年になる。また労働問題がかまびすしくなっている昨今、彼女のような絵を描く人はもういない。

(京都市美術館蔵)

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五十点美術館 No.13

2008年04月16日 | 五十点美術館
尾形乾山『色絵吉野山文透彫反鉢』


 京焼の名匠である尾形乾山の存在は、あまりにも有名な兄の陰に隠れて今ひとつパッとしないようだ。先日まで京都で乾山の大規模な展覧会が開かれていたが、公式ホームページには学芸員がこんなメッセージを寄せていたほどである。

 《いきなりですが、尾形乾山をご存じでしょうか。「かんざん」と呼んでる人はいませんか・・・。》

 こうやって注意が喚起されているとおり、乾山と書いて「けんざん」と読む。しかし正しい読み方を覚えたところで、5歳年上の尾形光琳には及ぶべくもない。何せ光琳の「琳」は、今に至るまで多大な影響力をもちつづける琳派の「琳」でもあるのだから。

 だが、各地の美術館にマメにかよっていると、光琳の絵よりも乾山の焼物に出会う回数のほうがはるかに多いのに気づく。そして、観るたびに作品の印象がちょっとずつ異なるのである。

 現代の陶芸家は、自分の作風を確立すると際限なくそれを繰り返す傾向が強く、それを極めたところに「人間国宝」といった栄誉がもたらされることが多いが、昔の陶工は実にさまざまなものを手がけた。彼らは腕の立つ職人であると同時に、多彩な注文を取り仕切る現場監督でもあったのだ。

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 焼物というのは、つくづく不思議なものだと思う。まず、立体造形という一面がある。つまり彫刻と同じように、三次元であらわされた芸術作品ということだ。そして焼物の場合、そのうえに必ず“何かの用に立つ”という条件がつく。つまり花瓶なり皿なり壺なり、日用品としての使用に堪えるものでなくてはならないのである。

 現代の陶芸展をのぞいてみると、作品としてはおもしろいけれど実用には向きそうもないな、というのがあまりに多い。その点、乾山の焼物はじゅうぶんに使うことができる。実際に料理を盛った写真も出ていて、後でこれを洗うときにはずいぶん神経を使うだろうと心配にもなるほどだ。先ほどの学芸員によると、「乾山写」と呼ばれる食器が今でもデパートで盛んに売られているそうだが、それは彼の焼物の実用性の高さを証明してくれるだろう。

 しかし、ただ実用的であればいいというものでもない。工芸品である以上、装飾という要素が必要になってくるわけだが、それには誰かが絵付けをしなければならない。実際、乾山が作った器に兄の光琳が絵を描いた作例も多く、見事な分業がおこなわれている。

 それだけではなく、装飾と器とが手に手を組んで、鮮やかなコラボレーションを繰り広げたりもする。たとえば、紅葉と流水をかたどった向付などはいい例だ。単なる飾りではない、柄とかたちが一体となった新しい器。入れ物としては少々扱いづらいにちがいなく、戸棚にしまっておくにも場所をとるかもしれないが、あたかも季節の一部分を切り取って食卓に饗するようなおもしろさがあるではないか。

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 『色絵吉野山文透彫反鉢』は、名前のとおり吉野の山桜をモチーフにした鉢である。外側に描かれた桜と、内側に描かれた桜とが一体となって、まるでそこに小さな満開の桜の林が出現したかのようだ。「透彫」とあるように、梢のところにはいくつかの小さな穴が開けられている。実用面ではまったく必要のない穴だが、枝々の隙間から春の陽光がこぼれ落ちるさまがそこには想定されているのだろう。

 手のひらで包み込めるほどの小さな空間に、春の意匠がすべて盛り込まれた器ひとつ。もはや足りないものはないようなものだ。

 さて、あなたなら、ここに何を盛りますか?

(MOA美術館蔵)

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五十点美術館 No.12

2008年04月09日 | 五十点美術館
村上華岳『夜桜之図』


 村上華岳というと、不遇だった晩年のことがまず思い浮かぶ。

 若いころには、閉鎖的な日本画の革新を掲げた国画創作協会(現在の国画会の前身)に参加し、京都を舞台に華々しく活躍したこともあった。しかし後には画壇との交渉を絶ち、神戸の花隈というところに隠棲して、持病の喘息に苦しみながら51歳で没したという。ぼくもかつて小児喘息をわずらっていたので、華岳の味わった苦しみのいくぶんかはわかるつもりだ。

 彼が残した多くの仏画や、鬼気迫るような六甲の風景画は、昭和初期に描かれた異色の日本画として多くの人の心を惹きつけているだろう。その一方で華岳には、内向的で陰気な、悲愴ともいえるイメージが絶えずつきまとっているのではなかろうか。

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 しかし若いころの華岳は、軽妙な舞妓の姿を何枚も描いている。後期の作品にはほとんどあらわれない妖艶な赤色が、ところ狭しと踊っているのには驚かされる。また彼は浮世絵の研究もしていたそうで、この『夜桜之図』には、「浮絵」と呼ばれる極端な遠近法を用いた構図の影響が明らかだ。

 この絵は大正2年のものだが、市民たちは江戸時代の出で立ちで描かれている。花見の習俗は、昔も今もほとんど変わらないらしい。画面の手前半分にはすっかり赤い毛氈が敷き詰められ、その上で人々がてんでに酒を酌み交わしている。現代のお手軽なカラオケセットの代わりに、三味線がかき鳴らされる。無数のぼんぼりや提灯が灯され、これでは肝心の桜が隠れてしまうのではないかと心配にもなってくる。実際のところ、『夜桜之図』とはいいつつも、桜は背後に追いやられてほとんど目立たない。

 座敷の向こうには、右から左へ、左から右へとそぞろ歩く人波。ひとりひとりの表情が、実に細かく描きわけられている。人々の声にならないざわめきと、その合い間に浮かんでは消えるチントンシャンのか細い音色が、今にも耳に聞こえてくるような気がする。これほど臨場感にあふれた花見の絵というのを、ぼくはほかに知らない。

 絵の舞台は幕末だが、京都で絵画を学んでいた華岳は、やはり当時の京都の夜桜を見て着想を得たのだろう。・・・と、こんなふうに思いたいところだが、絵を観れば観るほど、ここは京都ではないような気がしてくる。何人かの綺麗どころの姿も、やはり舞妓というよりは芸者であるし(といってもぼくは芸者をよく知っているわけではないのだが)、何よりも全体からただよってくる威勢のよさというか、庶民の底力のようなものが、ふつふつと感じられる。夜桜見物の人込みは、渋谷のスクランブル交差点の雑踏とどこかで通じているのである。

 ということは、この絵は華岳が浮世絵研究の成果を踏まえて頭のなかで作り上げた、まったく架空の風景だったのだろうか。そういわれてみれば、やはり添えもの的な桜の扱いが気にかかる。彼が描きたかったのは、風流な夜桜などではなく、いやむしろ桜を圧倒し去りかねないほどの、パワーにみちた人々の生きざまだったのだ。

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 村上華岳の経歴を見ると、生まれたのは大阪の松ヶ枝町となっている。地図を開いてみると、だいたい東天満のあたりであるが、ぼくが大阪に来て最初に就職した会社のすぐ近くなので驚いてしまった。

 さらに地図をたどっていくと、桜の通り抜けで有名な造幣局がすぐそばにある。この行事は何と明治時代からつづいているということで、若き村上華岳もおそらく、爛漫と咲き乱れる桜の下を通り抜けたことがあったにちがいない。

 『夜桜之図』には、そのときの印象がいくらか反映しているのかもしれない。そういえば中段に描かれているそぞろ歩く人々は、まさに桜の下を通り抜けているところだ。この絵は、江戸の浮世絵となにわの春の風物詩とが見事に合体した、現実にはあり得ない桜の名所を描いているのだろう。

(京都国立近代美術館蔵)

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